木庭順子理事長・塾長の「わたしを語る」が熊日新聞にシリーズで掲載されていると関西の友人からその記事が送られてきたので、懐かしくなり、壺溪塾を尋ねてきました。
約束の時間より30分前に着いたので守衛さんのお薦めで1号館から6号館と梁山泊寮(男子寮)を道路沿いに歩いてみました。近代的な建物に様変わりしていました。
60年ぶりの訪問にも拘わらず、暖かく迎えて頂きました。壺溪塾では木庭順子理事長・塾長、境信子事務局長、坪井本校の教務の境大地さまと、持参したその当時の写真を見ながら懐かしく話しが尽きませんでした。
その後、模試中の教室を見学し、資料室の旺文社編「全国大学入試問題正解」昭和39年度版に当時を思い出し感無量でした。教室で塾長から「ひと~つ、ふた~つ」と心の中で数えていき、十まで行ったら一に戻る昔からの「数息観」を実践して頂き、昔を感じてようやく心が落ち着きました。現在は机、椅子に座っての静坐でした。
・壺溪塾
1963年(昭和38年)同塾卒業生である兄に勧められ、帯山の兄の家に下宿して壺溪塾に通うことになりました。
塾にも入塾試験があり、熊大教育学部以上の学力が必要だと言われていた頃でしたが、合格発表を見に行くと300人定員の200番台だったと思います。運よく合格出来たということでしょう。
注意書きに「晝間部の氏名の上の数字は1年間の出席番号なので記憶しておく事。」と今思うと何とも古めかしい感じがします。同時に、合格発表当時の古めかしい建物も今では6階建ての梁山泊寮(男子寮)になっていて時代の流れを感じました。
当時の塾は畳敷きの授業で木庭令一前塾長による座禅から始まりました。試験の答案を点数の上位順に返されるので、成績を上げるために必死に頑張った記憶があります。朝から晩まで勉強、勉強の毎日でした。この時の塾の仲間が熊大法文学部法学科に17人が入学して約1割は壺溪塾出身で心強かったものです。その当時、歩いて通った道を今回訪問の帰りに横井小楠生誕地、夏目漱石内坪井旧居、宮本武蔵旧居跡を通り、右手に熊本城を眺めながら歩きましたが、塾の周辺はなかなか歴史的にも興味が持たれる地区だったんだと今更思いながら感慨深いものがあります。
・熊本大学
1964年(昭和39年)、熊本大学法文学部法学科に入学しました。五高記念館、赤門、武夫原グランドは卒業しても心の拠り所です。
黒髪町での下宿生活は特別奨学金を貰い、当時は毎月8,000円貸与でしたので、入学当時は下宿代6,500円を払い、残りは学食で50円/1食で生活ができて助かりました。返済は8,000円のうち3,000円の分を18年間で返せば良かったのですが、結婚後も返済を続けていました。
学生時代の想い出としては1年生の時に武夫原にて法文学部のソフトボールで準優勝したことや模擬裁判劇を脚本から出演まで自分たちで企画して開催したことで、当時の仲間とは卒業後もずっと学生時代同様の付き合いを続けていっています。
大学のクラブ活動はESS(英会話部)で当時は部員が100名を超えるほどの人気でした。九州の他大学との交流も密で福岡、佐賀、長崎と遠征して活動していました。卒業してからもその当時の仲間との交流は現在も続いております。卒業後、ESSの仲間が大阪で集まり、大学のホームカミングデーに合わせて熊本で、次は観光を兼ねて岡山で、また、第6回関西連合同窓会にも仲間が参加してなかなかの盛り上がりでした。この仲間との関西での集まりは2019年を最後にコロナ等の影響もあり、5年間、途絶えていますが、2025年にはゆっくりと集まり、語り合いたいものです。
同窓会活動では、昭和62年、大和ハウスの本社に転勤になった時、当時の総務部長が関西武夫原会(法文学部の同窓会)の事務局長でしたので、すぐ、同窓会の幹事に誘いこまれ、それから40年近く同窓会の世話役をやっています。関西武夫原会は昭和41年に第1回目の総会・懇親会を開催して来年は第60回目を迎える伝統ある同窓会です。私は平成26年から平成29年まで会長を務めました。
ホームページを通じて、会員間の交流を密にし、懇親会では「馬刺し」や「辛子蓮根」で郷土の食を味わい、ビンゴゲームを楽しむなどして和気あいあいの同窓会で、第1回卒業生から一番新しい卒業生まで参加して4年連続100名を超えるほどの賑わいでした。
全学部の同窓会である関西連合同窓会には「くまモンバッジでGO作戦」とかのキャッチフレーズを掲げ、多い時には武夫原会から40名ほど出席してその意気を示しました。平成27年に関西連合同窓会の会長になり、他学部との垣根を超えた交流を活発にし、翌年、熊本地震で被害を受けた五高記念館の復旧・復興に大学を応援し、大学との連携をさらに密にしていきました。
その功績が認められ、平成30年度 熊本大学卒業生表彰をしていただきました。
表彰式にはいつも側面で応援してくれている妻も法文学部出身でしたので一緒に出席しました。
後で聞いた話ですが、その時の原田学長と同窓会担当理事の古島副学長も「壺溪塾」の出身とは何とも不思議なご縁です。
・大和ハウス工業(株)
1968年(昭和43年)大和ハウス工業(株)に入社
九州生まれの最初の赴任地が福島でした。出張所の事務所二階に居住、新入生の私をS所長と工事のUさん、事務員のOさんは温かく迎えてくれました。入社当時の大和ハウスは「ハウスカレー」「ヤマトハウス」とか言われていた頃ですから営業は大変でしたが住宅展示場を福島、郡山、いわきに常設し販売を拡大するために頑張ったものです。
その後、盛岡・青森と転勤して東北で10年働きましたが「九州に転勤させてください」と役員に懇願して九州に帰り、宮崎、長崎と10年近く住むことになりました。
このまま九州で落ち着くと思っていましたが、突然、本社へ転勤との話が降ってきました。私は「犬を飼っていて子供同然に可愛いので社宅に住めないです」と断りを入れましたが、担当役員から「犬も一緒に住めるところを確保してやる」と一軒家を社宅として提供して貰いました。しぶしぶ本社へ転勤した次第です。言う方も言う方ですが要求を聞いてくれた会社には感謝しております。子供達も犬を可愛がっていて、一緒に住めるのを大変喜んだのは勿論です。
平成4年には建設省(現在の国土交通省)の外郭団体「住宅生産振興財団」へ出向し、62歳で退職しました。東北、九州、関西と何回の転勤にも拘わらず文句ひとつ言わず赴任地に一緒についてくれた妻に感謝しています。子供たちも転勤続きにも拘わらず素直に成長してくれて、長女が京都外国語大学、次女が東京大学、長男が大阪大学を卒業し、各々家庭を持ち、関東で皆元気に過ごしております。
入社当時の大和ハウスの売上高は400億円ほどでしたが2024年は5兆円を越し、建設業界の第一位になり「大和ハウス」と言ったら誰でもすぐ分かるようになったのは隔世の感があります。
石橋信夫オーナーが言われた「1.企業年金基金が確定給付であること 」「2.健康保険組合が75歳になるまで加入できること、」「3.定年後、OB会を創設し活発であること」のとおり、関西では毎年、社長や役員も出席して総会・懇親会を開催し、お互いの交流を図っております。OB会では総会・懇親会の他、国内・海外旅行、ゴルフ、散策、カラオケ、絵画、登山との部会活動も活発で2024年は私のふるさと・天草周遊&熊本城の旅行で崎津天主堂にも行ってきました。退職後も同僚たちとしかも夫婦一緒に交流を続けていけるのは大変すばらしいことと思っております。
・(株)小竹組
『ふるさとに恩返しばしよるや』、天草高校の同級生である(株)小竹組の江越征記社長から、新幹線の全線開通で熊本と関西が身近になる、今まで培ってきた人脈、智恵、経験、情報を、ふるさとへ吹き込んで欲しい、と言う彼の言葉で、関西から手助けすることになりました。2011年の九州新幹線の全線開通まであと2年という時で、まず取り組んだのが「ゆるキャラグランプリ」で「くまモン」をチャンピオンにすることでした。子供達にも多少迷惑がられながら電話でせっせと投票依頼をしていました。当時の熊本県大阪事務所のM所長、I次長が熊大の同窓生だったので、一時はダメかなとあきらめムードでしたが、踏ん張って、最後の最後まで本人・知人、家族までのご縁を繋ぎ、見事に栄冠を獲得しました。それ以来、くまモンの人気は衰えを知らず、その一端に関われたことは今でも誇らしく思っています。
また、熊本に縁がある経済団体「熊交会」の会員で大阪に本社がある食品卸売業の会社が熊本営業所を嘉島町に移転・新設するのに関わりました。今年10月、熊交会交流事業で熊本を訪問した時、御施主様ともご一緒に熊本県庁で木村知事とくまモンとも会えました。輪、絆を繋いでいったおかげでふるさとに少しでも恩返しが出来たかなとひそかに思っております。
(株)小竹組は熊本が本社で2024年11月に、創業100年を迎えた総合建設会社です。
・退職後の第二の人生(2024年のできごと)
私は、ご縁=5縁(①血縁=親・子や兄弟姉妹の縁、②地縁=出身地・住んだ地の縁、③学縁=小・中・高・予備校・大学の縁、④社縁=会社の縁、⑤趣縁=趣味を通じての縁)を大事にして、色々な会合や旅行等を楽しんでおります。会話をしていると不思議と5縁でご縁が繋がり「なーんだ日本人はみーんな友達なーんだ」と思うものです。
今までの述べたご縁(5縁)の絆を写真で綴ります。
①血縁
毎年の恒例で、子供や孫たちとの家族の旅行や妻方3家族の旅行が楽しみです。
②地縁
近畿五和会や兵庫県熊本県人会のふるさとの会に参加して交流を図っています。
③学縁
60年ぶりに天草高校の卒業式に参列、4月にはS38年卒業・傘寿同窓会に行ってきました。
それぞれが楽しい繋がりです。
④社縁
大和ハウス(神姫OB会)での総会・懇親会や旅行を楽しんでいます。
⑤趣縁
城巡り、沖縄にも友人と行き、同窓会やOB会のハイキングも楽しんでおります。
・「関西壺溪塾の集い」の設立
2024年9月中旬、濟々黌の本田さんから「熊日に壺溪塾の木庭順子塾長(3代目)のコラムが連載されていて、読んでいると壺溪塾が懐かしくなり、塾の同窓会でもやりますか」との連絡が私に来て「一度、年内に集まりましょう」と答えたところ、すぐ、「八高の川口さんを交えて発起会をやりましょう」となりました。3月に開催された四黌会(濟々黌・八代・鹿本・天草高校)で壺溪塾のことが話題になっていたので一気に話が進んでいきました。
2024年12月9日(月)、「関西壺溪塾の集い」の発足会は発起人7名が出席して開催しました。
1.会の名称:「関西壺溪塾の集い」
2.世話役(役員)について、
会長: 昭和39年卒 本島 昭男
副会長:昭和39年卒 川口宏子、昭和47年卒 橋本邦彦
事務局長:昭和41年卒 本田重寿
事務局次長:昭和50年卒 松田 亨 昭和58年卒 鍬田保智
事務局: 昭和61年卒 森下利貞
3.これからの活動について様々な意見が交わされました。
〇会員名簿の整備
〇グループラインでの交流
○ハイキング・読書会・映画会等の企画
〇ホームページ「わたしを語る」卒業生編への投稿
○ホームページによる会員拡大
○壺溪塾のホームカミングデー「壺溪塾での座禅会」への参加
〇木庭順子塾長を囲む会 ➡ 次回は京都で木庭塾長を囲んで【集いの宴】を是非、やりましょう。
色々な意見が出ましたが、そのうちのいくつが実現するか分かりませんが、皆、張り切っているのは確かです。
「坐禅」を通じて、人生の歩み方の基本を教えて頂き、一心不乱に、目標に向かい、必死に勉学に励んだ壺溪塾での経験こそが己の人生に大いに寄与しています。そして今、豊かな人生を送れていることに皆、感謝しております。
「関西壺溪塾の集い」の設立を機に5万人近い壺溪塾卒業生の輪が更に広がれば嬉しいと思います。