壺溪塾

卒業生のわたしを語る

陶山建二さん(1965年卒 一橋大学卒業)

その1.壺溪塾時代

私が壺溪塾に入学したのは昭和39年だから60年も前になる。当時の熊本では大学受験の予備校は当塾を含めて3行あり、その中でも壺溪塾の入試は、一部では熊大並みに難しい、と言われていた。確かに熊高の同期生で浪人した生徒の少なくとも1/3位は他の予備校に行ったのではなかろうか。

当時の塾は約80畳の畳敷きに裁縫台のように幅の狭い3人掛けの座り机が置かれていた。(注・この年が最後の畳敷きの大教室での授業)我々は下駄箱は入り口から遠いから使わず、門から入ってすぐの縁側の置き石の上やその周辺に下駄を脱ぎ捨ててお縁から直接上がっていった。最初の10日くらいはみんな早くから入室して席取りが始まったが、そのうちに各自の席が自然に決まり、小生は真ん中から右側の前から2番目が定席となった。授業前の最初の3分位は、木庭令一前塾長の指導の下、全員が畳の上で座禅を組み、「無念無想の境地になれ」、というものだった。「何事にも、へこたれるな」、という塾長の言葉が今も耳に残る。

塾の同期は約280名いたが熊高出身者が大勢のため、済々黌のS先生の英語の授業のときになると急に騒がしくなっていたため、先生は我々を、「戦後の壺溪塾で最低の出来損ない世代」と憤慨しておられた。当時の先生方は今と違いほとんどが現役の県立高校の先生方でありそれが許された時代であった。

元熊大理学部長の中村左衛門太郎先生も物理を教えておられたが、ちょうどこの年の6月に新潟で大地震が起こりそれを先生は10年くらい前の論文で予言しておられたということが判明し熊本では大騒ぎになった。同先生は其のころ半そで開襟シャツ姿で教えられていたが、白いシャツの背中にアイロンの 焦げ跡がくっきりとついており日常生活には全く無関心なおかただった。

小生は熊高時代から知り合いの、東大文一に行ったA君、京大法に行ったB,C君、横浜国大(工)に行ったD君達とは気が合いお互いに切磋琢磨したものだった。

B君とは8月31日の夏休み最後の日の朝7時に壺溪塾で待ち合わせて二人で金峰山に登った。できるだけ漱石の「草枕」と同じルートをたどって登ろう、と いうことで、これが「峠の茶屋}か、などと確認しながら登って行った。とにかく残暑の暑い日で汗だくだくとなり小1時間もたつと二人とも上半身は裸になり登り続けた。草枕に出てくる「小浜温泉の前田邸」まで行きたかったが、思いがけなく頂上までの時間がかかったため断念せざるを得なかった。

40年位経過し、京都に住んでいる筈の彼から突然電話があり、「自分は今、東京の病院に入院している、膵臓がんになり余命はあと半年、今自分が一番したいことは壺溪塾で君のギター伴奏で歌ったあの頃の唄を精一杯歌いたい、どこか歌えるところに連れて行ってくれ」というものだった。それで小生は熊本の同世代の女性が経営されている歌も唄える銀座のバーに連れていき、当時流行っていた、橋・舟木・西郷の「御三家」の唄に加えて彼の好きだった、「女学生」「霧の中の少女」「青春の城下町」などを思いっきり唄ってもらった。「陶山、これでおもいのこすこっあ、なかバイ」といい入院中の国立がんセンターに戻っていった。それから8か月後に彼が死去したというハガキが京都から届いた。

その2 大学時代

翌年、一橋大学経済学部に合格した。合格発表は国立大学の中では東大と並んで一番遅い3月21日だった。二浪はできない、ということで当時二期校の東京外語大学にも願書を出していたが受けずに済んだ。

合格発表後、二、三日経って熊本に帰ると母から、電報を見せられ、ジョスイカイ熊本支部なる発信者から、明後日市内の割烹店〇〇に〇〇時に来てください、と記してあった。当時、一般家庭にはなかなか電話は無かった。知らない組織(?)からなんの理由で出頭を命ぜられたのか見当がつかず、指定された日時に行くと、ジョスイカイとは、一橋大学の卒業生のOB会であり、当夜は「如水会の熊本支部」主催の熊本県下の高校から一橋大学に入学した生徒の祝賀会、ということが判明した。小生は、「そんなことまでやってくれるのか、一橋大学は!」と強く感激すると同時に自分も社会人になったら、今度はぜひ合格者を招待する側にたち、お同じような感激を味わって貰いたいとう、と決心した次第だがそれが現実になるのは47 年後であった。しかしそれいらい約13年コロナ禍の2年を除き毎回帰熊して出席している次第である。

大学では前期の小平市、後期の国立市にてそれぞれ大学の寮にてすごした。 入学式前のオリエンテーションでは、高校1年生のときから姉のギターを借りてある程度の曲が弾けたために、絶対にギター部に入ろう、と決めていた。ギター部の教室に入るとキャプテンの方が、「皆さん、ご入学おめでとう!それでは最初の曲は、バッハ作曲G線状のアリア。。。。。」といわれ、これは自分の目指すギターの道とは違う、と感じて入部せず、ひたすら独学の道を選ぶことにした。

12月末になると全国の大学に散らばっていた壺溪塾の仲間が熊本に帰省してきたが塾の同期で新年会をやろう、そして木庭塾長と山下事務長を招待しよう、ということになった。木庭塾長は大変に喜ばれ、宴席で 「オレは塾長になって初めて卒業生の集まりに呼ばれたバイ、こぎゃんうれしかこつはなか、二次会はオレが出すケン、どこでん連れていくタイ、どこが良かか?」とおっしゃった。

それで小生は、当時、桂花ラーメンのある通り(と思う)に「クラブ蘇州」というのがあり夏の夕刻には腿のあたりまで「深いスリット」のはいったチャイナドレスを着たお姐さんたちが店の前で水撒きをしておりそのそばをドキドキしながら通ったことが何回かあったため、そこに行きたいとお願いした。

薄暗い入り口から中に入ると正面に明るいステージとそろいの白い舞台衣装の楽団が演奏していてその前は広いダンスフロアーとなっていた。一階の天井は吹き抜けとなっており二階のうえから豪華なゴンドラがぶら下がっておりそのなかで歌手が唄う、という趣向となっていた。小生は当時流行っていた、ラノヴィア(日本語の唄はペギー葉山)を歌手気取りで原語(イタリア語)で唄った。一緒に来た仲間の中には、下駄ばきのままお姐さんらとダンスをする猛者もいて大変楽しい二次会だった。

大学の後期になると国立市に移り、財政学を専攻した。その時のゼミの教授は政府の税制調査会の委員の一人で、のちに日銀総裁となられた速水優氏も第一回のゼミテンであるが、同教授の次の言葉が今の日本を言い当てており、頭にしみついている。曰く、「赤字国債は戦後初めて、一昨年の東京オリンピックのあとの不況で発行された。赤字国債はたとえて言えば、麻薬のようなもので一度やると、やめられず次から次へと発行していき巨額に膨れ上がり返済のめどが立たなくなる(注。昭和42年度一般会計期初予算7.8兆円、赤字国債2,000億円)。今の国債発行残高は国と地方と合わせると国家予算100兆円/年の12倍まで膨れ上がっている。

就職は、海外で仕事をしたい、というかねてからの希望で総合商社の丸紅飯田(現在の社名は丸紅株式会社)に入社し自動車の輸出を行う部門に配属され4年半後には初めての駐在国グアテマラに赴任した。

その3 丸紅時代

インドネシアでジャカルタ肥後モッコス会提案者洋子スリアワンさんと

当時の丸紅自動車部は欧米やアジア向けに日産自動車や日産ディーゼルの輸出を行っていた他、中南米向けには日野自動車のトラック、バスやスズキ自動車(現スズキ)の四輪、二輪の輸出も行っていた。日野車の輸出をしていたグアテマラでは、2年前にオーナー社長がゲリラに誘拐され身代金を払って(US$30万、当時のレートで約1億円) 釈放されたものの、運転資金が不足し大幅な輸入減が見込まれる中、当時の丸紅の部長(大正から昭和にかけての若槻礼次郎首相の孫)から丸紅との合弁会社を設立することにより資金不足を解消しよう、そして丸紅からの責任者は、自分が27歳の若い時にインドのカルカッタに派遣された経験から、若い者を派遣し経験を積ませよう!という構想の実現のためであった。

当時の日本の国際空港は羽田空港のみで、海外駐在が今ほど頻繁ではなく、見送りの方々はある意味ではこの世の見納めみたいな感情を持っておられ、出発のためのロビーにはあちこちに大勢の見送りの輪ができていて、「〇〇君、海外駐在、万歳!万歳!」との掛け声が飛び交わっていたし、胴上げも珍しくなかった。小生の見送りにも、会社、大学、壺溪塾、熊高の関係者に家内の家族友人関係など約40数名の大きな輪ができていた。羽田からグアテマラまではロサンジェルスに一泊しての乗り換えで約30時間を要した。

赴任して間もないその年の11月末に熊本市内の大洋デパートが火災に遭い100数名の方亡くなられたという、日本のデパート火災の史上最多の死傷者を出したというニュースがこのガテマラでも大々的に報道され、死傷者の中に家族親戚を含め誰か知りあいは居なかっただろうか、と大変心配したことが昨日のように思い出される。

当時の国際通信事情は今のような便利、迅速、丁廉価ではなく、特にグアテマラなどは発展途上で国際電話のサービスなどは大変に遅れておりアメリカのフロリダ州ジャクソンビルの中継基地経由のサービスで、こちらからのオペレーターを通しての申し込みを行い、3~4時間待ってやっとつながる、という状況だった。日本との時差は16時間のため、日本との国際電話するためには一晩掛かりきりであった。また最低料金も3分US$25 (当時の為替レートUS$1.00=280円で7000円)ととても高価だった。そのため家族とのやりとりは片道7~10日かかる国際郵便が唯一の手段であった。半年後に家内を呼び寄せたのだが、その前にかけた電話は一度きりであった。

同国での最大の思い出は、同国で生まれた上の娘がまだ11か月、下の子があと2か月で生まれる、という昭和51年2月4日にマグニチュード7.8の大地震がグアテマラ市を襲い、25,000人もの死者がでたことである。(注。同国には日本の震度による数値表示は採用されていないがおそらく7の中~強といわれていた)

当時私は日本に仕事で一時帰国しており、新聞とラジオ・テレビの情報で 知ったわけだが、仕事を切り上げて直ちに帰国しようとしても、全世界に散らばっていたグアテマラ人が同様に祖国に残した家族・親戚縁者のことを心配し て一斉に帰国し始めたため、同国向けフライトはどのルートも満席でとれず、会社の計らいで日本―ロサンジェルスをファーストクラスにして貰いやっと帰国の途に就いたのは地震発生5日後であった。

グアテマラの自宅は幸いにして高級住宅地の近くにあり周りに林も多かったったせいか被害は軽微で済んだがアドべと称する、日干し煉瓦で作られた下層階級の人々の家はほとんどが崩壊し、灰燼となり数か月にわたりグアテマラの空に漂っていた。私の勤務していた会社は日野自動車のトラック以外にグループ会社としてスズキ自動車(現スズキ)の四輪車と二輪車の輸入販売もこなっていたので地震からの復興の支援として中型トラック1台、4輪駆動車2台、二輪車4台を【国家緊急災害対策委員会】(大統領が委員長)に寄贈し新聞、テレビなどでも「日本企業の友情」として取り上げられた。また日本政府により半年後にUS$77万(約2憶2千万円)の見舞金が、当時日本赤十字社の近衛忠輝理事によりJAL機で運んで政府に届けられた。 グアテマラの空港に日本の航空会社が立ち寄ったのはこれが最初で最後である。 JALの機体の「鶴のマーク」を見たときはおもわず涙が出そうになった。

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