壺溪塾

卒業生のわたしを語る

田嶋公明さん(2007年卒 一橋大学卒業)

1.壺溪塾時代のこと

私が入塾したのは確か今から約20年前の2004年のことだったかと思う。帰郷するたびに壺溪塾には顔を出しているが、時代の変化とともに壺溪塾も変わっていったものだと感慨深い気持ちになる反面、塾長をはじめ当時を知る先生方の顔を見ると変わらないものにいつも安心感のようなものを覚える。

私の経歴は一風変わっており、たしか2003のことだったか、大検を取得し、壺溪塾に翌年入塾、そこから3年ほど文系東大・一橋コースを受講し、最終的に2007年に一橋への入学へと至る。当時はまだ2つの新校舎(教員校舎・公務員科)もなく、庇工事も終わっておらず、今だから言えるが校舎自体にどこかしら昭和風味を感じていたのはここだけの話である。私の10代青春時代の大きな部分は壺溪塾とともにあったわけだが、その頃の思い出がやや懐古的なのは私が年を取ったということもあるが、あの頃の校舎の面影のせいでもあるかもしれない。この話をすると、当時を覚えている私より上のOB・OGの面々や当時新任してご指導くださった上野先生・塾長などは懐かしい気持ちになるのではないかと思う。今も講座があるか茶道・座禅の時間といった一見すると受験には直接関与しないであろう教えも古風みがあって印象に残っている。ちなみに、塾長から教わった座禅の数息観は、未だに私も重要なビジネスシーンの前では呼吸を数えて精神統一している。

ただ、そんな懐古的な側面を残しつつも、今から振り返ると壺溪塾は教育機関としては非常に前衛的で生徒個人個人の進路に合わせた合理的な受験戦略を分析し、カリキュラム構成・自習時間についても生徒の自由意思により構成できるという前衛的な構成をとっていた。東京に出て一時期は家庭教師等の職も経験した私も体感したのだが、学習というのは畢竟本人の意欲と感性次第であり、教え子が内容をどのように受取り、教えを消化するかという点が非常に重要になる。どれだけ高度な教育環境・設備があったとしても受験教育の本質は自分対他人、自分対自分の戦いであり、自己実現のために他人を通じて自分と向き合う姿勢を見せなければ戦えないものであると今だから実感できる。

具体的な例を挙げるならば、特に私が覚えているのは矢住先生がおっしゃった受験は取りやすい1点を拾い上げて他人との差をなくしていった奴が勝つという趣旨のお言葉でろうか。これは特に今の受験生に伝えたいことであるが、突き詰めて言えば、受験というのは受験本番については試験用紙を通じた他人との比較と対話とでもいうべきスクリーニング過程であるという趣旨の教えであった。試験問題を作成する側、採点する側も大学の職員という1個人であり、同じ試験を受ける受験生は多数いるということを常に念頭において対策すべきである。

ここで大事なポイントは2つあり、1つ目は出題者・採点者の意図をくみ取って、“相手が平易に理解できる形で答案を返す能力”、2つ目は自分の得手不得手にかかわらず、“他の受験生が通常は取れるであろう1点を高効率で取りに行く作業を続けるということ”にあった。当時はあまり理解できてなかったが、(社会においては別であるが)受験においては尖る必要はなく、誰でも取れる1点で差をつけられないために効率的な▲1点の減らし方を意識するのが受験において勝つコツであるということだ。採点者も人である以上、大量にさばく答案の中からわかりにくいものは減点したくなるのが人情というもので、▲1点を避けるにはアウトプット能力についても常に答案の向こう側を意識しなければならない。受験生諸君においてはこうしたベルトコンベア式の受験制度に多々不満もあろうが、紋切型の退屈な側面もあることを耐えて、上記2つは常に意識してほしい。

さて、受験生諸氏へのお節介な先達へのアドバイスはここまでにして、長々と “受験勉強は他人に埋もれて、差が出ないようにする出題者・採点者へのアピール方法を学ぶ作業”であることを述べてきたわけであるが、今思うと壺溪塾では受験のこうした紋切型の側面を教えると同時に、受験生が自主的に取り組み最終的に学んだことが実社会で活かされるように様々な角度からアプローチしていたように思える。

例えば、教材選出・教師の幅・テキストを反復できる自習環境・受験の先にある大学・時事問題を踏まえた社会へ出た後に活きる題材の選定など。受験生の将来に活きるような、それでいて生徒たちを飽きさせない学習環境を整えていた。今も私の手元にはかつて壺溪塾で教鞭をとっていた千田先生の英語長文のテキストが手元にあり、懐かしく手元に眺めているが、10代の学生に与えるには社会的な題材をうまく出題形式に落とし込んであり、作成者の試行錯誤や労力が見て取れる。他にも、上野先生の数学特訓講座は(1.2問の問題を時間をかけて自力で解けるまでトライする)実家にテキストが置いてあるが、安易に回答に飛びつかず一つの問題に取り組む忍耐力を感じるとともに、面白さがあった。仮に今同じ教材をもとに先生方の講義を受けたとして、十分に楽しめるし、学ぶものも多々あるであろうというのが正直なところであろう。きっと、他のOB・OGの方々もあの頃に戻ってもう一度講義を受けたと仮定しても、壺溪塾の授業は懐かしさとともに何かしらの学びを得られることと思う。一言でいえば“受験に受かって終わりではなく、受験に受かった後が本番”という意識を教員の方々が持っておられた。

壺溪塾という個性豊かな先生方が支える教育の場に席を置き、3年の学びの場を得られたことこそ私の青春時代の貴重な財産であり、大学以降の社会人生活の確かな礎を築くきっかけになったように思える。このような稀有な教育機関を作り支えてきた先生方にはこの場を借りて改めて感謝の言葉を述べるとともに、パーソナリティー豊かな先生方を取りまとめて盛り上げてきた塾長には壺溪塾の原点を忘れず盛り立てていって欲しいということをお伝えしたい。

2.卒業して大学で学んだこと+卒業後の苦難

2007年、一橋大学に入学した後、私は商学科・経営学を専攻した・・・が、実際には独学で数学とプログラムと経営学に明け暮れる日々であった気がする。一橋大学はもともと商法講習所を前身とする商学教育・研究機関であるが、私の学生時代はちょうど会計ビッグバンの終わりごろ、IFRS(国際財務報告基準)の適用で会計の現場が大混乱のただなか。2004商法改正で新会社法になり、会計基準においてもIRR(割引現在価値)の概念が浸透し、様々なものが変わりゆく制度の過渡期に会計学を修めるコストパフォーマンスの悪さに辟易していた私は会計系の授業は適当にこなしていたように思える。今の仕事で税法や会計処理に直面するたびに、もっと勉強しておけば良かったと真剣に思うが、後の祭りである。もしこれを読んでいる学生諸君がいるならば、制度変更されるから勉強しなくていいという考えは捨てて、どの分野でも最低限修めるべき分野は手を付けておいた方がいいと先達からのアドバイスをしたい。 一方で経営学、特に経営史の勉強はなかなかに面白く、日本・海外問わず各企業の大企業の社歴や株価、様々な制度について勉強し、過去から今に至るまでの世界の様々な業界の栄枯盛衰を学ぶ作業は面白かった。特に中小企業・企業史はライフスパンで考えた場合、将来の自分がどの企業に身を寄せるべきか、今後の経済がどのように動くか、ビジネスチャンスがどこにあるか、自分の進路を考えるうえで非常に役に立った。もし読者諸君でお時間があれば藤沢武夫の“経営に終わりはない”は一読の価値があるためおすすめする。 学生時代を通じて私が至った結論は、大企業が衰退する瞬間というのは主に2パターンに大分され、“社会生活・経済変動に対応できない時”、“適切な後継者がなくなる場合”のいずれか端的に言えば、これであった。

2011年、卒業の年。リーマンと東日本大震災のダブルショックで就職氷河期が到来し、中小企業はもちろん大企業ですら先行きが読めない地獄のような時代が到来した時期、安牌をとることを考えて公務員を受験した私は不合格通知を受けて、思った。当時の独り言をそのまま記す。

“あー、筆記2番で面接ほぼ最下位・・・自分にお役所無理そうだな。かといって、大企業向きではないな。ベンチャー?こんな時代にリスクはとりたくないな・・・ほどほどの人生でいい。そうだ、手に職持った状態で50人弱くらいの機動的な組織に所属して経験積もう。何かないかな・・・不動産鑑定士?試験科目の3科目全部勉強したことがあるから、試験が楽そうだからこれにしよう。不動産の手数料的ビジネスなら景気が良くても悪くても仕事はあるし、手に職つくし、潰しが効く。”

鑑定士業界はお役所以上の前例主義の村社会な環境なのだが、当時の自分はそのことを知る由もなく・・・不動産鑑定士試験に合格した後の丁稚時代、胃に穴を明け、逆流性食道炎で歯は溶け、不眠症に悩まされ、脱毛症になり、奥歯がすり減り・・・今となってはすべてがいい思い出である。学ぶことも多かったため、非常に有意義な時代を過ごすことができ、当時の方々には感謝の念に堪えない。

そこから紆余曲折を経て、私は自分の今後を死ぬ気で考えることにした。最終的には自分はそもそも日系企業自体向かないという結論のもと、外資関係の仕事に就くに至り、今に至る。(詳細は職務に関係するため記ことはできないが) この時期にいつも考えていたのは“明日死ぬつもりで生きろ、永遠に生きると思って学べ”ということであった。幾度も幾度もオフィスの窓から一人または少人数で朝日を眺めて、オフィスの近くのネカフェでシャワーを浴びてそのまま出社する生活の中で。他人をあてにしてはいけない、知識と技術だけが自分を守る、他人を信頼するな信用だけはしろ、ということを学んだ。毎日が戦場で、耐えられない人から脱落していく地獄があった。受験戦争は大したことはない、社会の方が残酷という受験生時代の言葉は本当だった。経済というゼロサムゲームの中で金を稼ぐには、誰かから奪うか付加価値を作り出すしかない。人を蹴落として仕事をするのは嫌だと考えた私は、自分自身の何かを対価に払うしかなく、自分の時間と技術と知識を差し出すしかなかった。当時はワークライフバランスという言葉もなく、私たちは死ぬ気で“椅子取りゲーム”をしていた。ポストは有限で、無能は追い出される。努力しているか否かではなく、成果の有無しか評価の対象にならない。結果だけがすべての実力主義。誇張でもなく、そういう業界や世界もある。

学生時代に勉強したプログラムの知識と法務・税務・会計・統計学・経営学・英語の知識、使えるものをすべて使って、足りなければ勉強して、独身の身軽さで誰よりも働く覚悟をもって、生き残りをかけて。受験生時代、大学の教授に学んだことや教えは下地となって自分を支えてくれた。それを実感して、パソコンを叩きながら幾度も感謝したし、教えてくださった方々や先達のことを思った。 今の若い人たちに私から伝えたいのは英語(基礎文法)、数学(特に集合・空間・微積・確率)、現代社会(可能なら世界史)は社会に出ても役に立つから学ぶ価値があるということだ。論理的思考は若いころに馴染んでおけばその後の学習効率に大きな差が出る。プログラムには数学の知識が必須で、フローチャートを作成するには分岐を管理する集合の知識、データの洗い出しには確率の知識、VBAには空間(位相)の知識がなければビッグデータを扱えない。英語は言うまでもなく、ニュースやビジネスの背景を瞬時に把握するには現代社会・世界史の知識が重要になる。

閑話休題。振り返って自分でも流れ流れて不思議なほど働いてきた。しかも最近は次のステップに進み、後輩等に教え、または指示することも多くなり、人に教えること・任せることの難しさに苦戦する段階へといたった。私は今までずっとOJTしか受けてこなかったため教育というものにとんと疎く、ワークライフバランス世代に合わせた教え方や接し方を模索する日々が続いている。私のデスクに聞きに来た後輩に教えながら、ふと教育や指導というものの難しさを実感し、“今考えると壺溪塾の先生たちってすごかった”と再認識させられることもたまにある。よく教育者を“種まく人“と例えるが、教育は付加価値を生み出す仕事である。ゆえに私は教育に携わる方々を素直に尊敬しているし、できうる範囲で自分も見習っていきたいと常々考えている。

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