壺溪塾

わたしを語る

~熊本日日新聞読者のひろばに掲載~

第3回 「3丁目の夕日」の暮らし

10カ月頃のひな祭り

1960年(昭和35年)、祖父徳治の死去により、壺溪塾塾長は父令一が継いだ。壺溪塾の仕事でほとんど家にいない父。専業主婦の母。誇り高い祖母。そんな3人に囲まれ、昭和27年に生まれた私は育った。一番下の妹が9年後に生まれ、私たち四人姉妹は喧嘩をしながらも仲良く育った。
熊本市内坪井界隈には畑があり、肉屋魚屋を併設した八百屋があり、半径50メートル以内で生活に必要なすべてが揃う、SDGs的な市民の生活があった。実家と壺溪塾は繋がり、離れに事務室があった。

私たち木庭一家は、昭和30年代を描いた映画「オールウェイズ3丁目の夕日」の地方版ともいえる日常を過ごした。祖母と母が、時間をかけて障子を張り直し布団を打ち直す。着物を解いて戸板に貼りつけて伸ばし、洗い張りをする。障子張り替えの前には子どもたちは障子にプスプスと穴を開けて、ビリビリに破っても良い。これが面白い。暖を取るのは火鉢や炬燵。夏は蚊帳を張り蚊取り線香を炊く。しもやけやあかぎれと友達だった。

内坪井の実家の庭にはニワトリがいた。祖母と一緒に大根葉やハコベを刻んで餌にするのが楽しく、またトウモロコシやキュウリなどの生る近くの畑の肥溜めが怖かった。紙芝居は内坪井の宮部鼎蔵碑の段のところに来ていた。小さな円柱の砂糖菓子の外の藁を崩さずに剥くともう一つもらえるので綺麗じゃない手で必死に剥き口に含むと甘じょっぱかった。小学校から帰り少し大きいお姉さんや小さい子など近所の子が集まって路地裏で白粉花の実を粉にしたり「すっけんぱた」と呼んだケンケン遊びに興じた。坪井川の少し上流の「田畑」まで行き、澄んだ流れにいる黒々とした目玉のようなカエルの卵を棒で突っついてみるのも面白かった。

お正月には、必ず玄関前に餅つきの一行が来る。玄関でつきたての餅をあちち、と叫びながら丸め、すぐに食べる美味しさ。ポン菓子を作って売る人も時々玄関先に来て、お米を持っていくと焼けた鉄の装置がくるくると廻って降りて来て、ギュギュっと押し付けると熱いポン菓子が出来上がる。かどやという八百屋に行くのも好きだった。魚の腸取りを見るのが生臭いが面白い。

スーパーマーケットができ、かどやが消え、お正月のつきたて餅がパック餅に姿を変え、テレビや洗濯機が来て五右衛門風呂がガス風呂に代わり、高度経済成長の嵐が木庭家にも押し寄せ、すべてが便利になった代わりに子どもにはつまらなくなった。