壺溪塾

わたしを語る

~熊本日日新聞読者のひろばに掲載~

第5回 母は戦後朝鮮から引揚げ

七五三にて 五歳の私と三歳の次女芳子と母

私の母澄子は大陸的で自由な魂を持つ人だった。澄子は1951年、20歳のときに養女として木庭家に入り、その後、令一と結婚して、後に塾長夫人となった。明るく無邪気な母は厳しかった祖母テルに遣えて、気苦労が耐えなかったと思うが、テルが自宅で転んで骨折し寝たきりになった後も世話をし、自宅でテルを看取った。

母は第二次世界大戦前夜の昭和5年(1930年)、日本の統治下にあった朝鮮で銀行の支店長をしていた父と専業主婦の母の下、五人兄弟姉妹の末っ子として生まれた。昭和5年は、壺溪塾誕生の年でもある。祖父が銀行家だったので、吉富家は転勤が多く、住まいは現在の北朝鮮から韓国までの都市を転々とした。広い屋敷の庭には、林檎やサクランボなどがたわわに実り、母は樹から実をもいで自由に食べた。

内坪井の実家のトイレが広いのは、朝鮮時代に広い屋敷に住みトイレがものすごく広かったおかげよと母は笑う。統治下の朝鮮で、日本人は高い位にあった。しかし澄子の父は、現地の人を見下すことなくお手伝いさんも置かなかった。澄子の母吉富八重子は料理上手で、後々久留米で仕舞と謳いの先生をした。日本が戦争に負けた時、虐待される日本人が多かったが、父親のお陰で丁寧な対応を受けたと母から聞いている。母も差別意識が薄い。

京都府舞鶴市の舞鶴引揚記念館所蔵の昭和21年釜山で撮影された「引揚船に乗れなかった少年」の写真

敗戦後、日本に向かって一家は木造の小さな船に乗り込んだが、その夜、嵐に遭い船が今にもひっくり返りそうに揺れた。高齢の者が船底に這いつくばる一方で、若い兄弟姉妹はマストにしがみ付いて叫ぶように歌い、何とか乗り切った。次の夜は凪でまん丸なお月様が美しく輝いたとドラマのような一コマを母は語ってくれた。嵐で船を失い、一家は鉄道沿いを歩いて引揚船の出る釜山に辿り着いた。15歳の母を含めた7人家族の誰も失うことなく日本へ帰還したことは祖母の自慢だった。途中、進駐軍の車に姉二人が連れていかれ、危うく襲われそうになったが、英語が少しできた上から二番目の姉が「絶対に嫌です、舌をかみ切って死にます!」と胸を張って気丈に主張すると、「わはは」と笑ってアメリカ兵士たちはたくさんチョコレートや飴を持たせて返してくれたという逸話も母から聞いた。

母は菊池の開拓団に入り、兄弟姉妹は北海道の帯広や埼玉、奈良、神戸と散々になり暮らした。母の親戚は日本中にいるので、時々遠くに住む従妹達と会うのが楽しかった。