壺溪塾

わたしを語る

~熊本日日新聞読者のひろばに掲載~

第8回 秘話「もう一人の次期塾長」

阿蘇 釈迦涅槃像

阿蘇は二つの美しさを持っている。一つは、外輪山が広がり中岳が見渡せる阿蘇市を中心とした雄大な地区。今一つは、根子岳を望める優しい印象の南阿蘇だ。南阿蘇には俵山があり、子どもたちが幼い頃、家族でお弁当を持って行っていたので親しみがある。一方、阿蘇市の方は、豊かに広がる外輪山と釈迦涅槃像の雄大さが圧巻だが、一年に一度も行かない場所だった。

それがあるとき、不思議なめぐりあわせで元銀行家の壺溪塾卒業生が、外輪山の麓に居を構えておられると知り、そこを何度かお訪ねすることになった。高台にあるご自宅からは美しい涅槃像が見渡せた。

その方に、父と母が知り合う前の木庭家の隠されたストーリーを聴くことになる。これを発表して良いのかを両親に問いたいが、二人は令和5年4月と6月に他界してもはや聞けない。思い切って語ることにする。阿蘇に住む卒業生の方は、祖父木庭徳治が塾長を務めていたときに内坪井の家に書生として入っておられた。書生はもう一人いて、壺溪塾を卒業後、九大文学部に進学された色の白い繊細な面立ちの方だった。彼は優秀だったので、祖父と祖母が次期塾長にと白羽の矢を立て、九大を卒業した後、ゆくゆくは塾長にという準備が進んでいた。母はその頃、祖母テルの姪の子という縁もあり、壺溪塾を継ぐために養女となり先に住んでいた。ただ無邪気な母は、その方と縁談が進んでいることをまったく知らなかった。

そしてある日、突然その方が自ら命を絶たれた。なぜなのか、誰も分からないままだったが、阿蘇のその卒業生の方が自分は真相を知っているとおっしゃる。彼が遺書を残していたというのだ。その遺書には、「自分には想い人がいる。その人への想いを断って壺溪塾を継ぐことはできない、でもここまで良くして下さった塾長ご夫妻に合わす顔がない。自ら命を絶ってお詫びする」と書いてあったという。それを聞いて母は腑に落ちたと言った。一人の女性が彼を訪ねてきたことがあったが、とても素敵な人だったそうだ。

壺溪塾塾長というのはかくも厳しい覚悟のうえで臨むべき役職なのか。私は自分を省みてぞーっとした。私にはとても資格なんかない。その方のお弔いを改めて木庭の菩提寺の見性寺で執り行い、実家の仏壇にあったお位牌を新しいものにした。その方が亡くなり、木庭令一が養子に入り、先に養女となっていた母と出会い、私達四人姉妹が生まれたのだ。