東京の大学生活においてもっともしたことは、間違いなく本を読むことだった。熊本でも受験勉強そっちのけで本を読んでいた私だが、成城大学の図書館に籠り、手あたり次第に読みたい本を読破していった。旅愛好会というサークルに入り、旅はそんなにできる訳ではないので、サークル仲間と読書会をし、大江健三郎の初期の作品を輪読した。しかし、男子が多かったので、「この本は女子には分からないよ」とバカにされ、憤慨した。「形容が感覚的で男の生理に根づく表現がしてあるので女子には分からない」と言う。反論できない自分に腹が立った。
考えてみると中学・高校と同級生はずっと女子ばかりだったので、男子の同級生は 初めてで新鮮に感じた。東京出身者が多く、東京弁をしゃべる男子と初めて会話する。彼らとは性別の垣根を超えて仲良くなった。熊本に遊びに来てくれたこともあるが、ただの友達だった。女子の仲良し3人組で行動していた。佐藤和代さん(タッチ)と岡本美和子さん(ミワ)だ。タッチとミワとジュン。私以外は東京都出身の二人。二人とも真面目で成績が良かった。ミワは残念なことに20代で肺気胸を悪化させ亡くなった。タッチは今でも健在だが年賀状のやり取りをするだけに留まっている。当時、剣道部の平野という男子先輩が素敵だったので、3人で憧れ、「素敵だよね~」と話したりするのが楽しかった。
芥川や漱石が専門の高田瑞穂先生のゼミに席を置いていたが、森鴎外を専門に研究する坂本浩先生のゼミにも顔を出し、先生の森鴎外の解釈を味わい、東京の文京区にある無縁坂界隈を文学散歩した。無縁坂は森鴎外の『雁』に出て来るお玉が住んでいた東大の傍にある爪先上がりの通りで、今でも文学散歩の人が訪れる。
明治、大正の東京、昭和の東京。東京は訪れる人に江戸まで想起させる豊かな伝統と先鋭的な現代とが混じる魅力的な都市だ。いろんな場所に歩いて行った。渋谷から電車を降り、青山通りを歩いて原宿に出る。その通り沿いにあるお洒落な店でウインドショッピングする。東京には一流のものがある。お店丸ごとショーケースのような家具店。どう見ても買うとは思えない学生が入っても、声を掛けられず、そんなに嫌な視線は来ない。行ってみたことがあるが、ロサンジェルスのロデオドライブにある高級店とは違う。日本人の売り子さんは差別的な視線は送らない。銀座の和光もウインドショッピングするのが好きな店だった。当時2階のショーケースにあったロイヤルコペンハーゲンのフローラダニカシリーズに魅了され、ただ眺めに行った。ロイヤルコペンハーゲンは白地に青い模様が印象的な陶磁器で、中でも草花の絵が描かれているフローラダニカは、押さえた色彩の金や緑が繊細な美しさを放つ。1775年、デンマークのジュリアンマリー女王によって王立の磁器工場が設立されたのが起源だ。美しい陶磁器が好きで、どんな料理を盛ろうかとワクワクするが、倹約しなさいという教えを祖母から受けているので、フローラダニカは今も見るだけに留まっている。
青山のパン屋アンデルセンは成城学園前にも支店があり、そこの生クリームをたっぷり挟んだ丸いクロワッサン、ボーラに嵌った。東京で有難くも親からの仕送りを受けて生活する。お金が潤沢にあった訳ではないが、今思えば何と贅沢な時間だったことか。アナウンサーになりたい、東京に住み続けたいという希望を持ち、何物でもない私はその大志を糧に生きていた。
紹介する本
大江健三郎 「見る前に跳べ」「ヒロシマ・ノート」
大江健三郎は東京大学文学部仏文科に在学中の1958年、短編小説「飼育」で芥川賞を受賞し注目を集めました。以来、1967年に『万延元年のフットボール』で谷崎潤一郎賞を歴代最年少で受賞、1994年にノーベル文学賞を受賞しました。
1963年8月に行われた原水爆世界大会を取材し、重い障害を持つ息子、光の誕生と同年の1965年に原爆病院の医師や原爆の生存者に取材を重ね、ドキュメント『ヒロシマ・ノート』を書いています。
「見る前に跳べ」はごく初期の作品で私たちの中に潜む弱さや醜さを独特の生理に根差した表現で書く文体は衝撃的です。
フローラダニカ
1790年、デンマークのフレデリック王子が当時デンマークと親交が深かったロシアの女帝エカテリーナ二世へ献上するために12年もの歳月をかけて制作させたのが「デンマークの花」の意を持つフローラダニカです。押さえた色調の上品なこのシリーズのコーヒーカップをイギリスのロンドンに住んでいたことのある
友人の清田ひろみさんが持っていたので感動しました。