成城大学2年生の頃、放送局に憧れ、アナウンサーになりたいと考えた。当時からマスコミは狭き門。大学に行きながら「青山ことばの教室」に通った。話し方を教わったが、私は全く方言が出ないと誉められ、今でも活躍されているベテランのアナウンサーの徳光和夫さんが審査員のオーディションにその教室から選ばれて臨んだ。応募者は美人揃い。もちろん平凡な私は落とされた。しかし、そこで知り合った國學院の学生が麻布10番でタレント事務所を経営していて、そこに所属することになった。
そこからデパートのファッションショーの裏方の仕事を斡旋してもらった。デパートでのファッションショーは1927年、三越で開催されたのが初めてだ。私が東京にいたのは、それから45年位あとの1970年代だ。当時、昼を挟んで1時間のショーがデパートのレストランで開かれ、時給5000円ももらった。しかもショーの合間にモデルと一緒にそのレストランでランチを食べられる。試着コーナーが、モデルの臨時着替え場である。私と同世代は知っていると思うが、売れっ子モデルだった秋川リサちゃんの着替えを手伝い、パンタロンの裾をガムテ―プで留めた。それだけの仕事で5000円。当時から東京はすべてが高くつくが給料も高かった。若者が集まるはずだ。
特に夏休みなどの長い休みの期間中だが、東京での大学生活の間にその他にもいろんなアルバイトをし、それぞれ楽しかった。新宿のデパートのお中元の包装の裏方や売り子。足が棒のようになった。昼休みに社食に行くのが唯一の楽しみという感覚が理解できた。デパートは新宿にあったので、住んでいた所の最寄りの駅の成城学園前から混雑した電車に乗り、サラリーマン張りに新宿まで通勤する。ある朝、混雑した車内で、目の前の女の人が痴漢に遭っていた。正義感に燃える私は、思わず斜め前の痴漢の手を握ったまま上げ「止めなさい!」と叫んだ。そうしたらその男の人は逆切れし、新宿に着いて電車のドアが開いたので、私が降りようとすると文句を言いながら追いかけてきた。雑踏の中で私は人混みをすり抜け、走りに走って何とかその痴漢から逃れた。
1年生の始めに成城学園大学前のチャチャという洋服店の売り子をしたときには、住んでいた家の大屋さんが「お宅のお嬢様が洋服屋でアルバイトをなさっています」と母に言いつけた。母は自由な人なので、父には内緒にしてくれ意に介さなかった。東京で自由に様々なアルバイト体験を積んだ。熊本に帰るつもりはなかった。