大学を卒業しても熊本に帰るつもりはなかった私がどうして帰郷しようと思ったかというと、その頃付き合っていた熊本の人と結婚したいと考えていたからだ。私は当時、地元の放送局で公募が唯一あった熊本放送報道部のレポーター職に運よく合格し、帰郷することになった。
憧れの放送局勤務。それは想像していたのとまったく違った。ENGという重い機材を担いで山道を登り降りするカメラマン。その重い機材の一部を私も運ぶ。体力勝負で男所帯の報道部は、当時「掃き溜まり」と言われていた。報道部には上の棚にズラリとテレビが並んでいる。競合他社を含めると三つのチャンネルが音を消して点いていた。この頃から他社に抜かれる、という意識が記者たちにあり、大手マスコミがニュースとして放送する並び順は暗黙の了解があるみたいに同一だった。そしてキー局は内容はともかく少しでも他社よりも早く報道しようと焦っていた。
熊本放送では初めての女性記者二人。河端由美子ちゃんと私。報道部に配属された私たちは、掃き溜めに鶴か?いやそんなことはない。私たちはローカルワイドニュースの「くらしの情報」コーナーを担当した。しかし、主婦でもない私たちは、デスク(記者経験豊富で今は取材に行かない記事の責任者)の奥様を通じて「あんなネタ、バカみたい」と叱られた。とにかく叱られてばかりいた。私が打たれ強いのはこの時の経験による。
新米記者の私は、バラ展示会のニュースの取材のためカメラマンとデパートに出向いた。バラ保存会の方にお話しを聞いた私のメモ帳は真っ黒。聞きすぎてまとまらない。何とか仕上げてデスクに見せるとそのデスク本田卓さんは、私の原稿をくしゃくしゃと丸めて屑籠にポイ。「木庭ちゃん、もう1回行って来なさい」オンエアーが迫っていて、もう時間はない。書き直せということだ。困った~。
そんなとき、ただでは転ばない私だ。放送局にはライブラリーがある。そこに行って調べると先輩記者が書いた昨年の記事があった。読んだ。目から鱗とはこのことか。私の原稿は書きすぎだったのだ。バラ展示会は綺麗なバラをお茶の間に届け、お茶の間が和む、という趣旨のニュースだ。早速自分の原稿をさらに削り、書き直した。そうすると今度はOKがもらえた。以来、先輩記者の原稿を読み、うまいところを盗むことにした。いい仕事をしたいと張り切っていた新人の私。きつい、辞めたい、でもがんばろう!の繰り返し。そんな日々が続いた。