昭和の時代、予備校は全国的に全盛期を迎え1966年(昭和41年)に第一次ベビーブームの波が押し寄せる頃、浪人の数は全国で12万人となった。その後も進学率の上昇に従って増加傾向をたどり、1975年には19万人を超える数となっている。1977昭和52年に全国予備学校協議会が設立され、当時の理事長木庭令一は副会長に就任した。昭和1978年の壺溪塾の実績は、国公立大医学部医学科116名、私立医学部29名、医歯薬系総数171名が合格するなど目覚ましかった。
そんな壺溪塾には伝説の講師が多数いた。数学の立原幹雄先生と平野功弼先生。立原先生は数学の解法が分かりやすいと評判の先生で、壺溪塾で今も実施している朝の「数学基本テスト」の原型を作った講師だ。後年、肺がんに罹り、病院から抜け出して行われた授業では息子さんに支えられ酸素ボンベを背負いながら、最後の教壇に立った。また平野先生は「鬼の平野」と呼ばれた厳しい講師で、教鞭を持って机間巡視し、論理が通っていない答案に大きく×をつけたり、塾生の耳を引っ張ったりして答案の不備を怒る。今ならパワハラを疑われる厳しさで有名だったが、彼の数学の美しい解法の前に脱帽する塾生が後を絶たず、「平野の数学特講」を80台まで教壇に立って講義した。
私が壺溪塾に通ったのは、1970年だった。当時、英語の人気講師、松木秀明先生 の英語の授業に魅了された。国語は得意でオリジナルの記述模試の壺溪模試でも1桁の成績を収めていたが、国語だけの1点豪華主義で、英語はあまり振るわなかった。しかし、松木先生の授業はほんとうに刺激的で、発音もネイティブ並みの美しさ。英語が好きになった。カリスマ的な講師松木先生は、黒板の前でその一挙手一投足が塾生の視線を集め、ジョークを言うと教室がどっと沸く。そのエネルギーに圧倒された。当時の壺溪塾の塾生たちの学力は全国的にも高く旺文社の全日本模試でも塾生たちは上位を占めた。優れた塾生は優れた講師とともにエネルギー溢れる教育空間を作るものだ。松木先生はフルブライト留学生の先鞭を切ってアメリカに留学した人で、熊本高校に長く勤務したが、高校と予備校との兼務ができなくなった年に熊本高校を退職し、壺溪塾の専任講師となった。壺溪塾には、やはり癌で入院されていたが病院から壺溪塾に授業をしに通い、羽織はかま姿で最期の時近くまで教壇に立った漢文の久塚清章先生もいる。前島田美術館館長の島田真祐先生。90歳近くまで教鞭を執った生物の木通邦武先生。化学の永好和夫先生、伝説のレジェンドは数知れない。
そして令和の今、それらの先生の薫陶を受けた卒業生の講師が壺溪塾の教壇に立っている。英語の髙木勝則、数学の上野雄一朗、化学の吉本進、倫理の後藤和孝、地理と政経の矢住勝大先生などだ。レジェンドたちに共通しているのは、壺溪塾生を志望校に通したいという熱い思いだ。浪人が流行らなくなった今、彼らはあえて苦難の道を選んだ塾生たちに自らの技術や熱い思いを伝え、懸命に合格へと導いている。