私達姉妹は、母が肺腺癌を患ってから、父より母が先に亡くなると思っていた。父は施設に入ってからもとても元気で、我儘も言わず、時々会う度に変わりなく、これは100まで大丈夫だね、と私達姉妹は言い合っていた。母は患った肺腺癌に効く薬を投与していたが、お腹の調子を崩して入院したりして、薬も飲めなくなり、少しずつ弱っていった。またベッドから落ち、一旦緩和病棟に入院したが、食欲も落ちてきて、日に日に弱っていくのが分かった。本人が家に帰りたがったこともあり、姉妹で相談し、塾に隣接した坪井の自宅に移すことにした。私達3人は壺溪塾に勤務しており、それぞれ激務にある。介護は無理だ。そこで家政婦さんや訪問介護のヘルパーさんなどを繋いで、できるだけ一人にしないよう配慮しつつの自宅介護が始まった。
令和4年4月に退院した時には今年が最後かもしれないからと車に乗せて、桜を見に熊本城まで私達姉妹で連れて行き、車の窓から見る桜を楽しんだが、その次の年も車の後ろのシートに横になりながら最後のお花見ができた。家に帰ってからは、食欲も出て、時々は車椅子で私の住む家やマンションに食事に来たり、妹のマンションを訪ねて飼い猫のミルクに餌をやったりしていた。何より家政婦さんが優秀で温かいケアをしてくださった。母を澄子先生と呼んで(お茶の師範だったので、塾生からこう呼ばれていた)慈しんでくださった。また寝たきりになっても笑顔のある可愛い母だった。グルメの母に手作りの餃子やお煮しめ、胡麻和えや酢の物などを届けるのも日課になった。母は白ご飯が好きだった。だから炊き立ての白ご飯を美味しく食べてもらうため明太子やしらす干し、梅干し、キムチなども常備して家政婦さんに少しずつ出してもらった。妹たちもそれぞれ激務にありながら、母を喜ばせようと一生懸命だった。3人も姉妹が傍にいるのは本当に有難く、私たちはおしめを買ったり、薬を取りにいったり、それぞれの役割をこなした。特に寝たきりになるまで台所に立っていた母はグルメなので、作る料理は手抜きできない。お煮しめやキュウリとワカメの酢の物、白和えや茶わん蒸しなど和食が好きだったので、鰹と昆布で出汁をとり少しずつ種類の多いご飯を頑張って作っていた。カンパチの刺身や茹でトウモロコシなども好きだったので手抜きもできた。何より白いご飯が好みで、キムチや明太子などがあれば大丈夫だった。家政婦さんの手も借りながら、出来立てをベッドで食べる日常が過ぎていき、母はホスピスで一旦食が細くなったが、その春に自宅に帰り、その春の桜と次の年の桜を見ることができた。