壺溪塾は2020年に
90周年を迎えました。
アフターコロナの壺溪塾
2020年は日本において「オリンピックの年」のはずでした。また2020年は壺溪塾の90周年を祝う節目として明るく彩られる年になるはずでした。
ところが、この文章を書いている今は、「2020年は新型コロナウイルスパンデミックが起こった年」と言わざるを得ない状況に陥っています。しかも私たちは、この年を境にアフターコロナと呼ばれる世界に生きていくことになります。
そのことを、運命の挑戦として受け止め、2020年以前の世界よりもより良い生き方を模索していきたいと考えます。それは、今、私たちに様々な価値観や感性の転換が求められているからです。教育の世界でも、変えなくてはならないものと変えてはならないものとを峻別し、本質的な価値の所在を明らかにしながら、フットワーク軽い感性で自らの殻を破る努力をする組織こそが生き残られるに違いありません。
アフターコロナの壺溪塾。未だ模索中ではありますが、私の考えるその形を記します。
壺溪塾の変わらない価値。それは、いつの時代も「合格」とその合格を創出する「心の成長」の二つです。それはこれまでもAC(ADならぬ)でも変わりません。若者たちの苦しくもかけがえのない日々。その生き生きとした、またある時は鬱勃とした日常。まだ何者でもない、しかし、社会人になり大人になった後には必ず飛躍するときが訪れ、「何者」かに生まれ変わるはずの壺溪塾生たち。若さの中にある迷いや足踏みが彼らを強くします。またそれこそが、コロナ対策まで加わっての苦しい状況下で「今、ここに生きている実感」を生みます。
では、アフターコロナの世界で壺溪塾が変わらなければならないのはどこでしょう。それはオンライン授業の実施など単なる教育ツールの多彩さの追求でしょうか。「生の授業」を核とした「自ら解く時間」の価値を追求してきた壺溪塾の手法は古いということなのでしょうか。それらの問いへの答えは「否」です。
率直にいうとオンライン授業はむしろ合格を遠ざけます。合格のためだけなら、一人で参考書を使って勉強した方が、効果が上がるかも知れません。それ故、新しい教育がタブレットを配ることだと勘違いしてはなりません。バーチャルリアリティーの世界が現出し、今ここに講師や学友がいるような臨場感が手に入るのならともかく、まだ今の私たちの技術では、オンライン授業は単なるエンターテインメントか講師や生徒の自己満足に陥る危険性があります。
しかし、拙速にオンライン授業に走ることをしないという前提を持ちながらではありますが、壺溪塾では有用な画像配信授業とはどのようなものかについての模索を始めています。私自身、公務員上級コースの論作文直前対策動画をホームページ上にアップし、IDとパスワードで上級コース生がアクセスできる壺溪塾生専用サイトでの発信を始めました。これは、事前に塾生の書いた論作文やそれを一部書き直したものなどを紹介しつつ、こう書けば高得点がもらえる、というポイントを含めた書き方や情報収集の方法や視点の当て方などを説明する講義を音声付きパワーポイントで作り込み、最初と最後に顔出しをして、授業らしい臨場感を出す工夫をしたものです。講義音声付きパワーポイントは、アニメーションの技術も駆使し作り込んだら、途中で止めることもできるし、これは授業よりも却って内容にしっかりと集中できるものではないかとさえ思え、自学を補足する上での可能性を感じさせます。つまり授業は指針の提供であり、塾生たちは授業で成績が上がるのではなく、授業での方向性の提示を受けて自学をすることで、書けるようになる(成績が上がる)のです。この動画を視聴した後、それぞれの塾生が書いた論文を提出、それをこちらが添削する、という流れになります。この添削後の答案をPDFファイルにして塾生のメールアドレスに送ることで、コロナ禍の下、直接会って指導するのを避けられます。
生の授業は先生や友と「時間と空間」を共有することです。この論作文の動画配信は、同じ「時間」は共有しません。しかし、同じ「広い意味での空間」を共有するとは言えます。しかも内容に深く入り込んだ「空間」をです。そこにこの手法での動画配信の内包する可能性を感じます。つまり壺溪塾生であれば、どこにいても、いつでもその「空間」を共有できる、ということになります。一人自室で動画に集中している時、もしかしたら今この時に動画を視聴し同じ空間に身を置く塾生がいるかも、と想像するとちょっと楽しいです。さらに添削指導においても、地理的距離は問われません。
実は、昨年度、ちょうど上級コースの論作文指導が終わった頃、ウイーンに私的旅行に出かけました。ところが、とても熱心な上級コース生がいて、予定の回数よりも多く何度も何度も過去問を書いて持って来ます。その何度目かのやり取りの最中で、私は旅に出たのです。そして飛行機から降り、ウイーンに向かう列車の中で、主人に「パソコンじゃなくて、外の景色を見たら?」と呆れられつつメールをチェックし、送られてきた論文を修正し、修正ポイントや修正した文章を彼のスマホにメール添付して送るやり取りをしました。ちなみに嬉しいことにその上級コース生は志望職種に一番で合格、論作文の点数も非常に高いという結果でした。それは言うまでもなく彼の熱意と自学の成果に他なりません。
どこにいても空間を共有できる動画配信やメール添付の個別添削は、アフターコロナの世で大きな可能性を感じさせるツールです。配信する動画に向く授業はあります。それはテーマを絞った一まとまりの授業。知識系の教科のうち、一定の視点のある授業です。また、メールでの塾生との添削のやり取りは、壺溪塾国語・小論文科主任の甲斐濯先生も、コロナの前からすでにされています。
アフターコロナの壺溪塾。リアルに集えない時は、まだ「生」授業の補完ではありますが、様々な可能性を秘めたオンラインでの授業の配信やメールを使ったやり取りをも駆使し、塾生の「合格」にもっとも近い学習環境を提供する最大限の努力をする教育の場、壺溪塾。少しずつ進化しながら、この難局を教職員、塾生とともに乗り越えたいと願っています。
最後に90年もの長きに亘って熊本で運営を続けて来られたのは、地元の皆様の温かいご支援があったからこそだと感じます。ここに心から感謝申し上げるとともに、これからもまずは100周年を見据えて歩みを進めていく壺溪塾に変わらぬご指導ご鞭撻のほどをよろしくお願い申し上げます。
壺溪塾 塾長 木庭順子
熊本県知事
蒲島 郁夫 様
Ikuo Kabashima
壺溪塾創立90周年に寄せて
壺溪塾が、創立90周年を迎えられますことを、心よりお慶び申し上げます。
壺溪塾は、昭和5年、大学進学をめざす若者を応援する学び舎として開塾され、以来、「単に合格するだけでなく、高い知性と美しい人間像の完成をめざす」という教育理念のもと、今日まで大学受験や公務員試験に高い実績を残され、数多くの優秀な人材を輩出してこられました。
この輝かしい歴史と伝統は、時代とともに、暮らしや経済、価値観が大きく変化していく中で、壺溪塾が、常に塾生と苦楽をともにし、学問の楽しさと成長の喜びを通じて、次代を担う豊かな人材の育成に真摯に取り組んでこられた証です。歴代の理事長、塾長、教職員の皆様の弛まぬ御努力に対し、心から敬意を表します。
また、平成24年には、熊本県の教育振興に関する方針をとりまとめた「くまもと『夢への架け橋』教育プラン」に御賛同いただき、壺溪塾と約4万人の卒業生の皆様から、多くの寄付金をいただきました。熊本の子どもたちの学びと夢の実現を温かく応援いただいておりますことに、改めて、感謝申し上げます。
今年は、熊本地震からの復興の途上で、新型コロナウイルス感染症、さらには令和2年7月豪雨災害が発生し、熊本はかつてない困難に直面しています。
壺溪塾におかれましても、コロナ禍の中で、緊急事態宣言が発出された4月から5月にかけて、一時、休校を余儀なくされました。
厳しい状況の中で、不安と戦いながら、懸命に机に向かっている塾生の皆さんの姿は、逆境の中から、夢に向かって一歩を踏み出した若かりし頃の自分の姿と重なります。
私は、昭和22年、今の山鹿市に生まれました。10人の大家族で、私は小学2年生から新聞配達をして家計を助けなければならないほど、貧しい家庭で育ちました。学業も振るわず、鹿本高校での成績は、常に最後尾でした。
そんな私にも、幼い頃から3つの大きな夢がありました。「小説家」「政治家」「牧場主」になる夢です。
私は、地元の農協に勤務していた21歳の時に、一念発起して「牧場主」になる夢を実現するため、農業研修生としてアメリカに渡りました。待っていたのは、農場での過酷な労働でしたが、ネブラスカ大学での3カ月の学科研修が、私に学問の面白さ、楽しさを教えてくれました。
24歳の時に、再び渡米し、通訳のアルバイトをしながら、ネブラスカ大学の農学部を受験しました。最初は仮入学でしたが、猛勉強をした結果、奨学金も貰うことができました。卒業後、今度はもう一つの夢であった「政治家」をめざし、ハーバード大学院へ進学しました。
その後、筑波大学、東京大学で教鞭をとり、平成20年、61歳の時に熊本県知事選挙に初当選を果たしました。以来、県知事として、県政の舵取り役を担わせていただいています。
これまでの人生を振り返って思うのは、「逆境」こそが、人生成功の鍵になるということです。子どもの頃の「貧乏」や、アメリカの研修生活での「苦しい労働」は、私にとっての逆境であり、この逆境の中で、夢を持ち、一歩踏み出したことで、一つ一つのステップが開けてきたように思います。
そして今、県知事として「逆境の中にこそ夢がある」という信念と、誰も取り残さないという強い思いを持ち、熊本地震と球磨川流域の創造的復興を両軸に、新型コロナウイルス感染症への対応を進めながら、「新しいくまもと」の創造に全身全霊で取り組んでいます。
壺溪塾で学ぶ塾生の皆さん、「人生の可能性は無限大」です。大きな夢を持ち、自らの可能性を信じ、夢に向かって力強い一歩を踏み出してください。懸命に努力し続ければ、必ず夢は叶うと私は信じています。
皆さんが、将来、自らの夢を実現し、熊本、そして世界を舞台に大活躍されることを心から願っています。
壺溪塾が、これからも、若者の夢と希望を応援する学び舎として、ますます発展していかれることを祈念し、お祝いの言葉とさせていただきます。
昭和43年度生
熊本大学学長
原田 信志 様
Shinji Harada
人生の試練
人生は試練の連続である。私の最初の大きな試練は、高校卒業後医学部の入試に失敗したあの春であった。
昭和43年の春、熊本大学に失敗し二期校であった鹿児島大学の医学部にも不合格が確定した時の気分の落ち込みは、今でも昨日の事のように思い浮かべることができる。自宅の2階の子供部屋の二段ベッドの上の布団に横たわり、天井から周囲に重い膜が覆い被さってくる、そんな気分であった。
その後、壺溪塾の入塾試験を受けたはずだが覚えていない。覚えているのは、自分で高い授業料を払いに行った事だ。両親は医者になることを期待していたが、落ちた事で私が親に経済的に迷惑をかけると考えた訳ではなかった。しかし、お金の入った封筒を持っていって、その封筒の感覚が妙に残っている。父も母も私が入試に失敗し落ち込んでいる事を心配しただろうが、何事もなかったように接してくれた。それが、今思うと、本当に助かった。
壺溪塾の授業が始まると、霧が晴れるように気分が高揚して来た。同じ境遇にある友人達に会い、また他の高校からの新しい友人が出来始めたことが大きかった。また、不思議な事だが高校までの入試のための勉強のプレッシャーから解放され、自由に自分の好きな事が出来る環境が心地良かった。高校時代の私は自由で士君子を目指せという校風は好きではあったが、自分に過大な学習目標を立てすぎて、それに向かって余りにも実直に突き進みすぎた。3年間、それに追い付くのに精一杯であった。しかし、浪人してしまうと、殆どの科目が既に勉強してしまったものであるため自分の気持ちに余裕ができた。苦手な所はすでに分かっているので、埋め合わせるのは簡単であった。得意なものは、範囲外だろうが構わず、どんどん伸ばせば良かった。数学は好きだったので、「大学への数学」の難問の解答を投稿したりしていた。英語の長文読解は苦手で、子供が読むような「メリーポピンズ」や「星の王子さま」の英語の本を読み始めた。しかし、これも慣れてくると、その時代、大学入試の英文がサマーセット・モームのものから出されることが多いことから、彼の本である「ホノルル」や「月と6ペンス」など読むようになった。国語や日本史も不得意であったが、壺溪塾の坐禅の洗礼を受け、禅問答の訳のわからない本や心理学や哲学の本などに手を出した。和辻哲郎の「古寺巡礼」など読んだのもこの頃である。読書といえば、浪人時代に読んだ安部公房の「砂の女」は忘れられない。昆虫学者が落ち込んだ砂丘の穴、その不条理な世界と閉塞感が当時の私の心理に大きなインパクトを与えた。その後、安部公房の作品を読み漁った。この時から英語の原書を読む癖と気に入った作家の全作品を読み集める癖がついてしまった。現在、家内がもっとも嫌うのが、嵩張る本の山と家に居る間は殆ど本を読んで居る自分であろう。
壺溪塾時代に培った癖は本だけではない。レコード(今はCD)を集め、映画を観る習慣も付いてしまった。理由は簡単、壺溪で重要な授業がない時は本屋、レコード店、映画館に通ったためである。私の実家は上通の写真館、そこで生まれ育った。上通の家から壺溪塾へは、広町から坪井へ行けば良いが、時間がある時は、全く逆の方へ行っていた。家を出て、上通界隈にあった数軒の本屋やレコード店を巡り、時には(今では通町筋からオークス通へ入ったビームスがある所にあった映画館)名画座へ寄って、平日に安い入場料で古い映画を見ていた。今も鮮明に覚えているのは「黒いオルフェ」である。
あの浪人時代は決して無駄ではなかった。確かに試練の逆境の時ではあったが、自分の人格形成には大きな糧となった時期であった。
昭和41年度生
崇城大学学長
中山 峰男 様
Mineo Nakayama
「啐啄同時」塾
私は、50数年前に壺溪塾に在籍していた団塊世代であります。幼少期は、戦後の食糧難時代でありましたから、野山を駆け巡りながら果物や木の実、小魚を獲ってはお腹を満たす野性的な生活を送っていました。したがって、勉学のことはほとんど考えたことがありません。中学校においても野球や相撲に興じ、教室以外で教科書を開くことはほとんどなかったと思います。そのような中、中学校3年生の夏休み前、高校進学についての3者面談がありました。私は、小学校5年の時濟々黌が春の甲子園において優勝したのを切っ掛けに、濟々黌にあこがれ、進学は濟々黌と決めていました。そこで、担任の先生に「濟々黌に進学します」と言い切ったところ、先生は私の母に気を使いながら、それでもはっきりと「君は絶対に濟々黌には合格しない」と言われました。私はそれまで、高校に入学試験があることさえ意識したことがなかったのであります。中学校は白川中学校でしたが、当時1学年900名ほどいて、一クラス60名以上の14クラス編成でありました。教室は急造のプレハブ造りであり、生徒は廊下に溢れんばかりのすし詰め状態でありました。その白川中学校において、私の成績は450番ほどでしたので当然濟々黌に入れるはずもなかったのであります。しかし、担任の先生が発した言葉は我が心に刺さり、この世の終わりかと思われるほどのショックを受けました。3者面談の帰り、母にねだって本屋により高校入試の参考書や問題集を買ってもらいました。そして早速その夜から勉強を開始しました。これが私にとって初めての受験勉強でありました。徹夜も相当やったりして夏休み中に全ての問題を解くことができました。その後成績も順調に向上し、1月に行われた中学最終実力試験では32番になり、濟々黌にも無事に合格することができました。
このような経験があったので大学入試も簡単に考えていましたが、高校受験とは比較にならないほどの狭き門であり、私を含め濟々黌の6割の生徒が浪人生活を送ることになりました。ほとんどの浪人生が予備校へ進学しましたが、急造の予備校が沢山ある中で、壺溪塾は別格であり、当時熊本大学教育学部より難関と言われていました。他校の優秀な浪人生も受験してきますので当然と言えば当然であり、壺溪塾に合格できたことは今でも誇りに思っています。そして、壺溪塾に入り驚いたことはハードな受験勉強を強いられることがあまりなかったことです。他の予備校においては教科の演習を中心に講義形式で一方的な指導がなされていたのに対し、壺溪塾では塾生の自主性を重んじ自らの意思で勉学に取り組むよう工夫されていました。畳敷きの自習室が設けられ、坐禅を組んだり、先生とのポートフォリオが行われたり、今考えると極めて先進的な教育方法だったと思います。禅語に「啐啄同時」という言葉があります。「啐」とは雛鳥が卵から産まれ出ようと中から卵の殻を突くときの音を意味し、「啄」はそれを聞きつけた親鳥がすぐに外からついばんで殻を破ることを意味しております。教育とはまさにこのタイミングであり、先ずは雛鳥たる受験生に、自ら自分の殻を割ろうと勉学への意義や意欲を持たせることが大切であります。当時壺溪塾では、このような啐啄同時の教育が実践されていたと思いますし、そのお陰で、単に希望の大学に合格を果たすだけでなく、その後の人生においても素晴らしい活躍をされた多くの卒業生を輩出できたのだと思います。私も木庭塾長や山下事務局長を始め諸先生方の薫陶を受け、大らかな受験生活を送ることができ、また人生の生き方についてもご教授いただきました。お陰で沢山の友人との楽しい思い出も残っておりますし、また熊本大学にも合格することができました。ここに改めて壺溪塾の皆様に心から感謝申し上げますとともに、創立90周年のお祝いを申し上げ、今後ますますのご発展をお祈りいたします。
昭和46年度生
放送大学熊本学習センター所長
古島 幹雄 様
Mikio Furushima
ムーラン・ルージュを聴きながら
今、ムーラン・ルージュ(スクリーンミュージック:パーシーフェイス楽団)を聴きながら本稿を書いている。この曲を最初に聴いたのは、もう随分前になるが、私が壺溪塾に通っていた頃である。それは、上通りアーケード内の金龍堂「まるぶん書店」内のBGMで流れていた。目を閉じてその哀愁漂うメロディーを聴いていると、壺溪塾での遠い思い出が懐かしく蘇ってくる。あれから50年近い歳月を経て、今の自分の起点は何処にあったのだろうかと、改めて振り返ってみれば、壺溪塾で過ごした1年間はあっという間であったが、ある意味、自分の将来の方向が決まった1年であったように思う。
さて、壺溪塾との縁は、熊大薬学部の受験に失敗した時からである。当時は、壺溪塾で1年受験勉強すれば志望学部に合格できるという受験神話があり、その恩恵に肖りたいと、藁にも縋る思いであったかどうかは忘れたが、とにかく入塾する事ができた。しかし、いざ入塾してみたら、頭がよく、志も高い(医薬系の受験生が多かった)、周りの優秀な塾生を目の当たりにして、このままでは二浪するかも知れないという不安が頭を過った。所謂、カルチャーショックに陥ったのであった。入塾して1か月位は、そのような呆然とした気持ちで過ごしていたように思う。5月の連休も終わった頃であったろうか、周りの優秀な塾生を見ているうちに自分の学び方や学習姿勢との大きな違いに気付き、これまでの学習法を改め自分なりの学習法を持たなければ彼らには到底及ばないと思った。その効果もあったのか、夏も過ぎ、秋も終わり、年も明けた頃には、教科に対する苦手意識も消え、理解も深まり、薬学部も手が届くレベルにはなっていたように思う。それに伴い、学問に対する意識も少しずつ変わって来ていたのであろう、入試を目前にして、私の気持ちは何故か「数学」に傾いた。どうしてそうなったのか、また、それまでどうして薬学部に拘っていたのか、今も分からないままだが、最終的には熊大理学部数学科を受験し合格した。
その後、学部を卒業し大学院に進学し、トータル11年間、学生として数学の研究に従事した。その過程で多くの出会いや厳しい試練もあったが、恩師や仲間の助けもあって、何とか試練を乗り越え、30歳の春にようやく高専の職に就くことができ、そこで数学者としてスタートした。その頃から、意識を変えれば心に働き自分の人生も変わって行くような気がして、意識を高めるために、数学だけでなく、人文社会系の書物も読むようになった。そのことが功を奏したかどうかは分からないが、念願だったドイツのマックスプランク数学研究所やゲッティンゲン大学に客員研究員として招聘され、通算6年間のドイツでの研究生活を送ることができた。その間、琉球大学、広島大学と異動し、平成11年に22年ぶりに熊大理学部に帰って来た。熊大では教育・研究だけでなく、学部長、理事・副学長などの管理職も務め、令和2年3月に37年の大学人生を終えた。
話は戻るが、一般に、学習のスタイルは概ね高校までに形づくられているように思う。その多くは、板書をノートに書き写す(清書する)受け身の学習であろう。本来は、教師は生徒に聴いて思考させる授業を心掛け、生徒は聴きながら同時に内容を理解する、そういう能動型の学習が理想であるが、これは人によってはハードルが高いかも知れない。
一般に、高校の学びと大学の学びは質的に異なる。大学では、板書をノートに取るだけの受動型の学びから、授業を聴きながら同時に思考し、疑問に思った事や腑に落ちた事柄を形式的知識としてノートにメモし、それらを自学自修により自らの知に変えてゆく能動型の学びへの質的転換が求められる。そのことにより、より深い学びへと繋がってゆく。
最後に、壺溪塾の皆さんには、日々の学びを単なる知識の習得とせず、知識を自らの知に変えて行く努力もして欲しい。
昭和39年度生
日廣薬品株式会社顧問 日本グローバルビジネス専門学校講師
陶山 建二 様
Kenji Suyama
壺溪塾の先生方と仲間たち
私が壺溪塾を卒業したのは昭和40年3月なので55年も前になる。
当時の熊本では大学受験の予備校が当塾を含め3校あり、その中でも壺溪塾は熊大の幾つかの学部より難しい、と言われていたものだった。現に熊高の同期生で浪人したものでも少なくとも3分の1位は他校に行ったのではなかろうか。壺溪塾の同期は約280人位居たがそれでも熊高出身者が大勢いて済々黌の英語のS先生の時には騒がしかったため先生は我々を「戦後の壺溪塾で最低の出来損ない世代」と憤慨して言っておられた。確かに昭和10年から30年生まれの20年間の内、我々20年生まれの出生数は1番少なかった。従って熊大を含め難関大学への進学者数も確かに最低であった。その中でも東大文一に行ったA君と京大法に行ったB,C君、早稲田理工に行ったD君の合計4名とは気が合いお互いに切磋琢磨したものだった。B君とは8月31日の夏休みの最後の日に壺溪塾で朝七時に待ち合わせて2人で金峰山に上った。できるだけ漱石の「草枕」と同じルートをたどって登ろう、ということで、これが「峠の茶屋」か、などと確認しながら登って行った。とにかく真夏の暑い日で汗だくだくとなり、1時間もたつと2人とも上半身は裸で登り続けた。草枕にある「小天温泉の前田邸」まで行きたかったが思いがけなく頂上まで登る時間がかかったので断念せざるを得なかった。その彼も15年位前に、またC君も鬼籍に入り寂しい限りである。亡くなる前年に京都に住んでいた彼から突然電話があり、自分は、今、東京で入院している。膵臓癌になりあと半年しか生きられない、今自分が1番したいことは壺溪塾で君のギター伴奏で歌ったあの頃の唄を精一杯歌いたい、どこか歌える所に連れて行ってくれ、というものだった。それで小生は、熊本出身の同世代の女性が経営しておられた銀座のカラオケクラブに連れていき、それこそ当時流行っていた、橋、舟木、西郷の唄に加えて彼の好きだった「女学生」「霧の中の少女」「青春の城下町」など思いっきり歌って貰った。
「陶山、もうこれで思い残すこつぁ、なかバイ」といい、築地の国立病院に戻っていった。
当時の塾は約70畳の畳敷きに裁縫台のような幅の狭い3人掛けの机が置かれていた。我々は下駄箱は遠いから使わず、門からすぐの縁側の置き石やその周辺に下駄を脱ぎ捨ててお縁から直接上がっていった。最初の10日間位は早くから入室して席取りが始まったがそのうち各自の場所が自然に決まり、小生は真ん中右前から2番目が定席となった。A,B,C,君も近くの席だった。始業開始前の10分間は静坐し黙想と塾長の訓話を受けたものだった。「へこたれるな!初心を貫徹せよ」と塾長は常に訓示されていたと記憶する。
その年の6月中旬に新潟が大地震に見舞われたが、物理を教えられていた元熊大理学部長の中村左衛門太郎先生がその10年ほど前にそれを予知する論文を発表されていることが分かり大変な話題となった。先生はその頃半そで開襟シャツ姿で教えられていたが白いシャツの背中にアイロンの焦げ跡がくっきりついており日常生活に全く無頓着なお方だった。
塾を卒業した翌年の正月に各地に散らばっていた仲間たちが熊本に帰省してきたが、塾の同期で新年会をやろう、そして木庭塾長と山下事務長を招待しよう、ということになった。木庭塾長は大変に喜ばれ、宴席で「オレは塾長になって初めて卒業生の集まりに呼ばれたバイ、こぎゃん嬉しかこつぁなか、2次会はオレが出すケン、どこでん連れていくタイ、どこが良かか?」と仰った。それで小生は、当時、桂花ラーメンのある通り(と思う)に「クラブ蘇州」というのがあり夏の夕刻頃には腿のあたりから「深いスリット」の入ったチャイナドレスを着た御姐さん達が店の前で水まきをしておりそのそばをドキドキしながら通ったことが何度かあったため、そこに行きたい、とお願いをした。私は東京でそのようなキャバレーには行ったことが無かったのである。薄暗い中を入ると正面に1メートル位の高さの明るいステージがありそろいの白服の楽団が演奏していた。その前には、ダンスが十分にできるスペースがあり一階の天井が無く吹き抜けで天井から豪華なゴンドラがぶら下がっていてその中で歌手が歌う趣向となっていた。小生は当時はやっていたラ・ノヴィア(日本語ではペギー葉山)を歌手気取りで原語で歌った。塾長、事務長と一緒に来た者たち、約10名の中には下駄ばきのままお姐さんらとダンスをする猛者達もおり大変楽しい2次会だった。
小生は一橋大学に進学していたが、卒業後は丸紅(株)に入社し自動車輸出部に配属され約5年~6年ごとに海外と日本の駐在とを繰り返していたので卒業後30年くらいは熊本に帰省する機会は殆どなくなった。しかし丸紅を辞めた後の幾つかの会社では海外出張は有ったものの駐在は無く、特に10年程前にジェトロに勤務していた時代には、「中小企業の海外進出支援」の部署となり熊本の企業も支援することになったので年に数回は帰省し(黒髪町にまだ兄夫婦が居住していた)年に1回くらいは壺溪塾を訪問し令一理事長及び順子塾長とお話しする機会が幾度となくあった。と同時に塾の生徒さん達に2度にわたりお話しする機会も頂いた。順子塾長からは2度の講演の後に、出席してくれた生徒さん達の感想文を後日ご丁寧にも小生の自宅に送付して頂いた。それらを読むと塾生たちの小生への感謝の気持ちと将来に対する希望とが書かれており、塾の生徒たちの礼儀正しさと意識の高さに驚いたものである。理事長からはそんなある年、奥様と共にキャッスルホテルで夕食のご招待を受け、更に下通り裏のバーの二次会までご一緒したことがある。その時にお伺いした奥様のお話(概略)は、「昭和20年の終戦直後の内外の混沌としていた時に、当時日本の一部であった朝鮮の女学校の寄宿舎に、他の生徒達が夏休みで日本に帰り、独り取り残されていた奥様を、その母君が迎えに来てくれ(父君は銀行勤務の終戦処理で動けず)2人の姉上と一緒に日本への帰国を企て、最初は小舟にて出港するも嵐で進めず翌日再度試みるも、今度は官憲に捕まり港に戻された、しかし、そこから徒歩にて歩き続けること50日、最後は密航し、九死に一生を得て、奇跡的な日本への全員そろっての帰還」という信じ難い、、小説を地に行く話である。なんという度胸と行動力と強運のご家族であろうか!
最後に、創立90周年を迎えられる名誉理事長と澄子夫人のご健勝をお祈りする次第である。
昭和42年度生
植木シルバークリニック院長
武原 重春 様
Shigeharu Takehara
二度の挫折を乗り越えて
今回壺溪塾から原稿の依頼がありました。まず壺溪塾90周年おめでとうございます。現在の私があるのはひとえに壺溪塾のお陰です。私は昭和23年2月生まれで満72歳。いわゆる団塊の世代で、平成元年7月に植木町に医院を開業しました。内科・神経内科・こころの健康相談と看板を出していますが、本来は精神科専門医で、当時まだ精神科の敷居が高く、あえて精神科の看板は出しませんでした。それから30年余り、中年から老年期のうつ病や認知症を中心に診療を続けています。小学校の校医や介護保険の認定審査会、保健所から依頼の精神鑑定などもやっています。
私はこれまでに人生の挫折を2回経験しました。その1回目は高校受験不合格でした。八代市内の中学校でそこそこの成績でしたので憧れの濟々黌高校を受験し不合格。私立高校に入学したものの夢捨てがたく、1年生の11月に自主退学し、水前寺ガード近くの高校予備校「松楠塾」に入塾。八代から汽車通学しました。当時まだ蒸気機関車の時代でした。翌年濟々黌高校に合格し、また汽車通学。熊本―八代間は単線で、通学時間は2時間以上かかっていました。
中学時代に祖父から武原家のルーツである八代郡河俣村(現在八代市東陽町河俣)から偉い先生が出ている、緒方正規という方で北里柴三郎と古城医学校の同期、卒業後独逸留学、帰国後東京大学初代衛生学教授となられた、お前も医師を目指してほしいと諭され、次第にその気になっていき、熊本大学医学部を受験。しかし学力不足は明らかで不合格。2回目の挫折となりました。そして直ちに大学予備校「壺溪塾」へと向かいました。
壺溪塾時代の思い出は50年以上前のことでもあり、鮮明なものではないのですが、まず入塾試験があったこと、入塾者が母黌の同窓会みたいで、見たような顔が多かったこと、講義前に坐禅があったこと、テスト後に科目別成績上位ランキングが貼りだされ奮起したこと、講師の先生の中に現役の母黌や熊高の先生が何人もおられたこと、そしてボシタ祭り(当時はそう呼んでいた)には大学に合格するからと言われ、随兵として参加したことなどを思い出しました。
壺溪塾での1年間はやはり辛く、苦しい日々で、当時流行っていた高石友也の「受験生ブルース」の中にあった、僕は悲しい受験生、砂を噛むような味気ない云々というフレーズ通りでした。そして翌年の再受験がまた不合格になるのではという不安が付きまとっていました。不安の1つの理由は、現役時500点満点(理科と社会2科目ずつ)が450点満点(得意な社会が1科目減)になったことでした。それでも自分なりの勉強法を続けました。毎日の講義を真面目に聴き、復習し、テストの後は間違いを徹底的に反省し、苦手の数学(当時も数Ⅲまであった)は得意の友人で母黌の同級生から毎日超難問ばかりを1問もらい、丸一日かけて解答し、添削を受けました。さらに高校時代の教科書を改めて熟読しました。翌春には友人と共に熊本大学医学部に合格できました。
壺溪塾時代は健軍町小峯に下宿。バスで通いました。私以外は皆社会人でしたが仲良くしてもらい、土曜の夜は雀卓を囲むのが楽しみで、その数時間だけが私にとり受験を忘れて没頭できるささやかなリラックスタイムでした。
壺溪塾の毎年の大学合格者を新聞で注意深く読んでいます。他の予備校に引けをとってもらいたくありません。今後増々多数の合格者が出ることを祈願して私の拙い寄稿文を終わります。
昭和54年度生
福井大学教授
友田 明美 様
Akemi Tomoda
壺溪塾で頑張っている皆さんへ
〜子ども時代に受けた虐待による”癒やされない傷”に挑む〜
私は人間に対する興味から、人間を対象とする「医学」を学びたいと思い、壺溪塾での1年間の浪人生活を経て熊本大学医学部に入ることができました。早いものであれから40年経ちました。
医学部卒業後は小児科医を志望し熊本大学病院の発達小児科入局、その後2006年から准教授の職に就いていましたが、2011年から福井大学に新しくできた「子どものこころの発達研究センター」で教授として働いています。主な研究テーマは「児童虐待と脳の発達」。私がこのテーマを選んだのは研修医のときでした。ある病院で、脳内出血の子どもが救急外来に運ばれてきた。全身にはタバコによる火傷の跡。救命措置を施し、集中治療室で3日間寝ずに看病しましたが、その子は助かりませんでした。無償の愛を注ぐべきはずの親が、子どもに対してなぜこんなにもひどい仕打ちをするのか。私はこの問題を何とかしたいと思い、研究を始めたのです。
今は、大学の院生さんやハーバード大学など海外の研究者たちと一緒に、MRIという、脳の画像が撮れる機械を使って子どもたちの脳について調べています。最近分かってきたのは、児童虐待を受けることで脳の大事な部分に「傷」がつく、ということです。この傷がずっと続くから、虐待を受けた子どもは大人になっても辛い思いをする。今後は、この傷をどうやって治していくか、そのことを目指して研究を続けていきたいと思います。
最後に浪人中の皆さんへのメッセージです。私が考える(今も目指している)プロフェッショナルとは、「降りかかる困難から逃げずに、一つのことに打ち込み常に前向きにチャレンジしていくこと」です。浪人時代は将来が保証されているわけではなく精神的に苦しいかも知れませんが、人生の中でこれほどまでに目標に向かって前進できる時期はありません。失敗を恐れずに迷わず進んでください。
一つのことに打ち込み、積極的に行動を起こすということが大事。これはぜひ後輩のみなさんに言っておきたい。私は30代のときに2人の娘を産んで、育児をしながら大学病院で臨床経験を積みました。そして42歳のときに最新の研究をするため、ハーバード大学に留学しました。もちろん娘も一緒に連れて。自分の信じること、やりたいことがあったら、意欲を持って行動を起こすべきです。女性は育児があるから、家庭があるから、やりたいことは我慢しなければ?とんでもない!育児も家庭も仕事も、打ち込む気持ちと行動に出る勇気さえあれば、何でもこなせます。もちろん、家族の協力はとても大事ですけどね。
そしてもう一つ、色々な分野の人たちと仲良くなって下さい。同じような考え方の人とだけ集まってしまうと、どうしても思考が凝り固まってしまう。異なる分野の人たちが集まるからこそ、思いがけないところからヒントが浮かんでくるのです。私は医者をやっていますが、薬学や工学、教育学など、様々な分野の人たちといつも仕事をしています。医学だけでできることは多くありません。これからは学際的に、つまり色々な学問分野が集まって、問題を解決する時代なのです。これは先ほどの「一つのことに打ち込む」ということと、全く矛盾しません。一つのことに打ち込むために、色々な力を借りるのです。皆さんには、そういったことを強く意識してこれからの勉強に励んでいただきたいと思います。
昭和55年度生
熊本大学准教授
前田 康裕 様
Yasuhiro Maeda
壺溪塾での学びとつながり
創立90周年おめでとうございます。
私は、昭和55年に済々黌高校を卒業し、多くの悪友達と一緒に壺溪塾に入塾しました。当時の済々黌は、浪人するのがスタンダードでしたので、当然のように壺溪塾に〝進学〟したわけです。
その壺溪塾で学んだ1年間は自分にとってどのようなものであったのか、当時のことを交えながらお伝えしたいと思います。
まずは、何といっても木庭令一塾長。とにかく、木庭塾長の話はあっちに行ったりこっちに行ったりと、何を話したいのかよく分からないのが持ち味でした。「本塾のエアコンは素晴らしくて、氷点下まで室温を下げることができるんだ!」と自慢された時には、思わず笑ってしまいました。また、「浪人生である君たちは、今は世間的には何物でもない。しかし、決して現役で合格した者達に引け目を感じることはない。社会に出たときに活躍できるよう、高い志を持ちなさい。」と熱く語られていたことをよく覚えています。
教室の席順は決まっていなかったので、私は朝早くから玄関の前に並び、小走りで教室に入って前の席を確保してました。これは、私の学習意欲が高かったからではなく、当時、好きだった女の子と並んで座るために、その子の座布団を隣の席に置いて場所取りをするという不純な動機によるものであったことを申し添えておきます。
壺溪塾の先生方の授業は個性的で強烈でした。教科の学習内容だけでなく生徒がつまづきやすいポイントをよく理解されているからこそ分かりやすい授業になっていたのでしょう。木通先生の生物や竹本先生の地学の授業では目からウロコが何枚も落ちたように感じました。古文は島田美術館の島田真祐先生。ダンディな出で立ちで淡々と古文を解説しながらも、時折ちょっとした冗談を入れられる姿がかっこよく、女子生徒の憧れの的でした。私は教育学部志望でしたので、教師という職業にさらに魅力を感じていくことになりました。
私自身の勉強に関しては、日本史が最大の課題でした。そこで考えたのは、歴史人物を漫画に描きながら学習するという方法です。もともと漫画を描くのが好きだったので、楽しく覚えることができたわけです。そうやって身に付けた「漫画学習」の技能は、その後の人生におおいに役立つものとなっていきました。
忘れられないのが8月30日の大水害。朝起きると、庭は一面の水。それから、あっという間に家の中に水が押し寄せてきたのです。畳とタンスは浮かび上がり、母親はパニック状態となりました。なんとか逃げることはできましたが、何もかもが水浸しとなり、水が引いた後は、家中が泥だらけです。私は呆然となってしまいました。しかし、そんな私を勇気づけくれたのは、壺溪塾の悪友たちでした。自分の勉強はそっちのけで駆けつけ、使えなくなった畳や家具を運んだり、衣類を洗濯したりしてくれました。さらに、木庭塾長からは後期授業料の全学免除のお話をいただいたのです。母は泣いていました。
一年後、私は希望通り熊本大学教育学部に入学し、小学校の教師になることができました。壺溪塾時代に私の隣の席に座ってくれていた女の子は妻となっています。そして40年後の現在、私は熊本大学に勤めるようになり、教師を育てる仕事をしています。また、教師が成長する様子を漫画で解説した教育書も出版するようになりました。
「高い志を持ちなさい」という木庭令一塾長の熱い思いと当時の様々な経験がつながって、現在の自分があるような気がしてなりません。ここにあらためて感謝の意を表したいと思います。そして、これからも、壺溪塾で学ぶ塾生の皆さんが逆境をバネとして自分の人生を切り拓いていくことを期待しております。
昭和57・58年度生
西村 宏貴 様
Hiroki Nishimura
「わが人生は壺溪塾にあり」
創立90周年を迎えられたこと、心よりお祝い申し上げます。
私が入塾したのはもう38年も前。月日が経つのは本当に早いものです。黒髪にある当時4年制とも言われた高校から壺溪塾の門をたたいたのは昭和57年。周りの雰囲気も希望の大学に行きたければ浪人しても当たり前という時代でした。
浪人したとは言え、まるで高校の延長線。自主性を重んじる塾の方針とおおらかな雰囲気に甘んじ “何とかなるさ!”的な気分で、勉強も身には入らず、塾長杯夏のバレーボール大会では見事優勝! そろそろやばいかなと思った時には既に時遅し。1年目は国立・私立共一校も合格せず完敗。そこでやっと自分の実力の無さと弱さ・甘さを認識し、心を入れ替え再スタートしました。
木庭令一塾長先生(現名誉理事長)の朝の坐禅と睡眠の講義(レム睡眠・ノンレム睡眠を初めて知りました)から自分に気合を入れなおし、熱のこもった先生方の講義に改めて感動したものでした。特に、病気で大変なご様子でも最後まで教壇に立たれていた英語の先生のことは忘れられません。また常に先の見えない不安な浪人生に対し、いつも明るく笑顔で対応して頂ける事務の先生方には本当に助けて頂きました。
国公立の共通一次試験(現大学入学共通テスト)の二日目最終日はちょうど成人式の日。試験終了後に同じ2浪した同級生と下通りの繁華街に繰り出し、ジーパンにジャンパー姿のままでスーツや晴着姿の同級生達を横目で見ながら、式典に出られなかったうっぷんを晴らしたことを思い出します。熊本大学法学部の合格発表当日、合格発表を見るより先に壺溪塾の事務の先生から「合格よ!」と言われた時は2年間の浪人生活から解放された瞬間であり、そして高校から見れば一本の道を隔てて近くて遠かった大学がやっと身近になった瞬間でもありました。
私はその後、バイト生(当時)としても学生時代の4年間、壺溪塾にお世話になりました。試験監督に採点、宿直と朝の門開け、事務のお手伝いなど、殆ど毎日壺溪塾に通っていたと思います。藤崎宮秋の大祭時の随兵行列へも毎年参加。本格的な鎧兜を島田美術館の館長に着用させて頂き、塾の代表として熊本市長の護衛役も務めさせて頂きました!
浪人はしないことに越したことはないのでしょうが、自分にとって浪人の2年間とバイト生としての4年間はその先の人生でいろんな意味で心を鍛えて頂いた本当に大事な時間だったと思います。今の私があるのも壺溪塾のお陰といっても過言ではありません。浪人中の多感な時期に授業でのご指導はもちろんのこと精神的にも多くの先生方、事務の先生方にも助けられ、社会人として生きていく為の基礎を作って頂いたと感じています。
企業に入れば、上司・同僚・後輩、そして部下、また、顧客や取引先などのステークホルダーの方々と様々な付き合いがあります。更には業績確保(向上)が常に求められ、精神的にも肉体的にも苦しいこともままありました。しかしながら、自分にとっては、あの先が見えない不安の中で過ごした2浪目の1年間に比べれば何事もたいしたことは無いという気持ちを持てたのも事実です。もうあと数年で定年退職を迎える年齢に近づいて参りましたが、浪人した後の自分の人生で浪人したことを後悔したことは正直ありません。しいて言えば大学からは同期よりいつも年を取っていることくらい(笑)。まさに「人間万事塞翁が馬」です。そして熊本を離れ、大阪、広島、東京と勤務地も変わりましたが「人間到る処青山あり」。
受験生の皆様も、そしてこれから受験を迎える方々も、今はしんどいかもしれませんが、壺溪塾で学びそして育てられ、日本だけでなく世界で活躍できるような人財になって欲しいと思います。
今の壺溪塾は、高校生からの受験コースや公務員コースなど、時代のニーズを先取りし、常に変革を遂げられているのだと思います。変化に最もよく適応したものが生き残ると言われるこの時代、100周年、150周年に向けて更なるご発展を祈念しております。
昭和58年度生
角野 弘幸 様
Hiroyuki Kakuno
アイデンティティーへの目覚め
大学に落ち、浪人生となった私たちは、壺溪塾の門をくぐることとなった。いったいどんな生活が待ち受けていることだろう。そんな精神的に不安定な私たちを優しく迎えてくれたのは、教務の芳子先生と幸子先生だった。「大丈夫、そのままでいいんだよ」と言ってくれているようだった。私の出身校は幸か不幸かその殆どが浪人したので、塾での仲間には事欠かなかったが、そいつらとすぐに芳子派か幸子派かの論争になり、「芳子先生は塾長の娘ばい、幸子先生のお父さんは山下事務長だけん、そっちの方がよかど。(何が)」などあらぬ妄想の日々が始まった。
肝心の勉強の方だが、だんだん感触がつかめてくると、「これは出た方がいいな、これは出らんでも、まぁいいか。」と生意気にも授業の選別をする始末。そんな空き時間を過ごす場所は喫茶店だった。塾近くの喫茶店でアイスコーヒーをブラックで飲めたことがきっかけでコーヒーが飲めるようになった。上通りの喫茶店に足繁く通ったなぁ。
季節は夏となり、塾ではバレー大会が催された。ほぼ出身校対抗となるのだが、うちの高校は選抜のAチームと烏合の衆のBチームで参加し、私もBチームで出場した。私にサーブの番が来ると第一高校の女の子たちから「かくのくーん」と声援、初めてのモテキというやつか。終わった後、打ち上げやったんだよね。あれお酒も飲んだのかな、覚えてないけど写真あります。あの時の幹事さん、ありがとうございました。
私たち58年度生にとって、忘れられないのはYさんとUさんのコンビだろう。目がくりっとして、美人のYさんと人懐っこい可愛さのUさんはいつも後ろの方に並んで座っていた。Y派かU派かの論争は勿論したが、あの当時、私たちは恋愛とは、ある距離を置いていて(恋愛なんかしてる場合じゃない)、彼女らを含め女子を「受験戦争を共に闘う同志」と捉えていたのではなかろうか。
印象に残っている授業と言えば、松木先生の英語Reading、小森先生の英文法、立原先生の数Ⅰ、島田先生の古文などがあった。壺溪塾での浪人生活を通して、授業の選択や時間の使い方などを初めて自分で決めることを覚えた。秋から冬になると、RKKラジオ「歌うヘッドライト」で少し休憩し、「大学受験ラジオ講座」までしっかり聴いた。よく勉強したなと思う。共通一次が終わり、二次出願校を決める最終面談が記念館で行われ(それこそ膝と膝を突き合わせて)、私は一次の自己採点が良かったので、第一志望の広島大総合科学部を受けたかったが、後藤先生との面談で、熊大法学部に変更した。当時は悔しい思いもしたが、最終的には自分が決めたこと。私というIdentityが形成される黎明の時期が壺溪塾時代だったと言える。
これは後日談だが、多くの塾生と熊大の赤門をくぐることになったのだが、キャンパスで女子の塾生とすれ違う度に交わされる親密な挨拶に、「おいおい、なんや今ん人は?お前ばっかずりぃばい、俺にも紹介しろ。」という日々。俺たちは共に闘った同志、おまえらみたいなナンパ野郎に紹介するかってな具合で、無視していたが、とうとう押し切られて、前述のYさんの地元まで車で押しかけ、喫茶店まで出て来てくれたYさん、あのときはありがとう。私はこの後、塾生だった人に恋することになるのですが、続きは100周年で明かすことにしましょう。
ということで、壺溪塾創立90周年おめでとうございます。大学に入った時に、現役生から「ものの見方が鋭いね」とか「物事を俯瞰的に見てるよね」と言われるような、浪人生にとって人生修養の場として、益々発展されることを卒業生一同願っております。
昭和57・58年度生
東熊本第二病院院長
馬場 太果志 様
Takashi Baba
壺溪塾での思い出、そして現在の想い
壺溪塾創立90周年誠におめでとうございます。私は壺溪塾に2年間お世話になりました。見栄で受け、運で通った、熊本高校でしたが、高校時代、剣道しかしたことがなく、特に英語は河浦町の富津中学(世界遺産の崎津教会のすぐ近く)でしたので、英語の授業がなく、それを言い訳にして、全く勉強せず、本当に悲惨な成績でした。あのころはセンターでなく、共通一次試験でしたから、1000点満点、5教科、7科目の試験だったので、他の4教科で800点とり、英語は目をつぶってマークすれば、40点はあるから840点で熊本大学医学部を受験できると豪語していました。
当然のごとく、不合格となり、浪人を余儀なくされ、壺溪塾にお世話になりました。英語は授業についていくことが出来ず、ラジオ講座と問題集を中心に多くの問題を解くように心がけました。授業中眠くなるので、昼ごはんは食べないようにしました。(それでも眠ってましたが)とりあえず勉強しかすることがないので、毎日15時間は勉強していたと思います。そして10か月、2度目の共通一次試験がやってきました。800点は超え、700点から逆転した人もいると聞き、何とかなると自分に言い聞かせ、三者面談では、他の大学を強く勧められましたが、熊本大学医学部を受けたいという気持ちは変わらず、受験させて頂きましたが、あと2点足りずに不合格、また壺溪塾にお世話になることとなりました。
2年目も同様の日々が続きました。4月の初めは長蛇の列ですが、6月くらいになると朝6:50の開門時に並ぶ人は近くに下宿している人たちと自分くらいでした。成績も2年目となると先生方の問題の傾向が分かっているので、特に数学、物理の成績は格段に向上しました。しかし肝心の英語は泣かず、飛ばずの成績でした。そんな自分を見かねたのか、子供さんも剣道をされていた松木秀幸先生が、「おい、おれの古かペーパーバッグばやるけん、訳してこんや」と言って頂き、その日から毎日、ノートに日本語訳を書いて提出することとなりました。初めは1日1-2ページでしたが、12月には数十ページを読むことが出来るようになりました。英語の成績自体はよくなりませんでしたが、本当に感謝しています。
そして、私の壺溪塾での一番の思い出は、2年目の11月頃、木庭前塾長の静坐の時間、目を閉じて、数を数えながら、息をゆっくり吐き出し、意識を集中させるという、いつもの事をいつものように行っていた時のことです。「あれ、自分があそこに座っている」と思いました。まるで幽体離脱したかのように天井の上から目を閉じ静坐を行っている自分を上から観察しているもう一人の自分がいると感じたのです。皆さん信じがたいと思いますが、自分の中では真実です。本当に集中した時、自分を客観視できた時、このようなことが起こるのではないかと考えています。そして3回目の共通一次試験がやってきました。何とか840点は超えましたが、松木先生から、あと10点足りないといわれ、鹿児島大学、長崎大学、宮崎医科大学などを進められましたけれども、どうしても熊本大学医学部を受けたいという気持ちは変わらず、受験させて頂き、なんとか上位で合格させて頂きました。
ちなみに蛇足ではありますが、7年間壺溪塾にお世話になった私の長男が昨年、熊本大学医学部に合格させて頂きました。本当に感謝の念でいっぱいです。
壺溪塾は、単なる勉強の場ではなく、様々な方々(先生方、卒業生そして関係した全ての方々)の有形無形の想いの結晶、意識体であると思っています。今後も壺溪塾はその思いを集め続けて、ますます大きな存在となっていくものと確信しています。今後は創立100周年に向けまずはゆっくりと歩を進めていって頂ければと思っています。
平成10年度生
岐阜市民病院小児科部副部長
山下 達也 様
Tatsuya Yamashita
私のライフワーク
壺溪塾創立90周年、おめでとうございます。そのような長い歴史のある学校に、ほんの一時でしたが、関わることができたことを、卒業して約20年経った今でも、誇りに思っています。
私は理学部を卒業した後、精神科医になりたいと思い、再受験をするため、壺溪塾に入学しました。縁があり無事に合格することができました。現在、出身地の岐阜で小児科医をしています。子どもたちの心と身体を診る「小児・思春期こころの外来」で、不登校や摂食障害などの小児の心身症の治療に取り組んでいます。
その診療の中で、子どもたちのある特性が不登校や心身症と深く関連していると感じるようになりました。その特性とは、私が現在ライフワークとして取り組んでいる「HSC」というものです。90周年記念誌への寄稿文として、HSCについて述べたいと思います。
HSCとはHighly Sensitive Childのことで、「ひといちばい敏感な子」と訳されることがあります。アメリカの心理学者であるエレイン・N・アーロン氏が提唱した概念です。例えば、怒られると深く傷つきやすい子、教室のざわつきや先生の大きな声がつらいと感じる子、人が多い空間にいると圧迫感や息苦しさを感じる子、想定外のことが起きるとパニックになってしまう子どもたちです。
アーロン氏(2015)によると、HSCとは、“生まれつき感受性が高く、繊細、慎重な子どもたち”です。特性ですので、病気ではありませんし、大人になっても変わりません(大人の場合をHSP(Highly Sensitive Person)といいます)。15~20%(ほぼ5人に1人)存在します。
HSCには以下の4つの特徴があります。第1に「深く処理する」(あれこれ可能性を考えてなかなか判断できない、年齢の割に深く考える)、第2に「過剰に刺激を受けやすい」(音、肌触り、痛みなどに過剰に反応する、興奮した後は寝付けない)、第3に「感情反応と共感力が強い」(他人が怒られている様子を見聞きし自分のことの様に感じてしまう、他人のストレスによく気づく)、第4が「ささいな刺激を察知する」(味や匂い、食感に敏感である、少しの変化や非言語の情報に気づきやすい)です。
感受性が高過ぎると何が問題なのでしょうか。長沼(2019)によると、刺激に過敏に反応する状態が続くと不安や恐怖を持ちやすく、行動を抑制する傾向が強くなります。そしてマイナス感情を持ちやすくなり、あきらめやすい、自己評価が低くなる可能性があるのです。
ではHSCに対して望ましい対応の一例をご紹介します。過去の成功体験の中から安心感を持たせてあげる、安全な場所と時間をとってクールダウンの機会をつくる、つらい気持ちや不快な感情を受け止め共感する、本人の長所を伝え自己肯定感を高める声かけをするなどがあげられます。
実際、HSCに理解のある大人(養育者や教師など)によって、良い環境で育つと、HSCはその良い影響も人一倍受けるため、HSCでない子より健康的で、芸術性や思いやり、共感などのプラスの面を存分に発揮するのです。
世の中のHSCに対する認知が進み、HSC本人と周囲の人間がその特性を理解し、本人が安心して生き、自己肯定感を持って、能力を発揮していけるように、私にできることをこれからも精一杯やっていきたいと思います。「HSCが幸せな世の中は、きっとすべての人にとって幸せな世の中なのではないでしょうか。
平成26年度生
永松 基記 様
Motoki Nagamatsu
未知の環境と未来に生きる力
私と壺溪塾の出会いは、高校三年生の三月、浪人が決まってすぐに担任の先生と話している時のことでした。その時まで玉名郡の片田舎で育った私にとってそれほど熊本市内の予備校というのは縁遠い存在であり、二回ほど特待生試験を受け、面接も受けての未知の環境への入塾となりました。
私の実家から壺溪塾までは親の送迎と電車で片道一時間くらいでしたが、電車通学というのもなかなか新鮮でした。私の所属していた六組は東大京大を目指す塾生向けのコースであり、三十人あまりの中で知っているのは同じ高校から来た同期一名のみ。ほとんどが熊高や濟々黌出身者であったことから最初のうちは不安の方が大きかったです。私にとっての幸福はほぼ最前列に座れたことで、昔から席替えでもなんでも最前列が好きでしたので、授業にも集中でき、周りの目というか環境を気にしすぎることもなく学習に参加できたことを今となっては感じています。
壺溪塾に入ってからは驚くことばかりでした。毎朝行われる小テストでは、得意だと思っていた英語について自分が『なんとなく』で解いてしまっていたことを痛感させられました。それぞれの授業でも、東大や京大を想定した高難度の問題に取り組む中で、それまでの自分が行っていた漠然とした勉強から、論理的で複雑な思考を通じて高いレベルの結論を導く営為を行えるように自分を洗練していくことができました。授業以外でもまず四月の阿蘇山への遠足が衝撃でした。予備校というと勉強勉強勉強のイメージがあったので、バスに乗ってみんなで行って交流するというのが、四月の不安ずくめで沈みがちだった自分にとってはありがたかったです。夏のバレー大会も秋の例大祭の随兵行列も、仲間たちと楽しく参加する新鮮な経験であると同様に、勉強へ集中できるためのメリハリを作ってくれていたように思います。
大学に入ってからは京都大学総合人間学部で好きな学問を好きなように学び、壺溪塾で広げた視野を更に広げることができました。日本中から集まった多様性に富む友人たちや先生方、そしてその人々と関わる中での経験は壺溪塾でのあの一年が無ければ存在しないであろうし、そうでなかった人生は今となっては想像もつきません。
これからの塾生の皆さんは私たちの経験していた以上に混沌とする世界に飛び立たんとする力をこの壺溪塾で涵養されることと思います。時代は大きく変わってゆきますが、その中でもこの壺溪塾が九十年間大切にしてきた価値観や塾生の学び取る精神はきっと普遍的に私たちの糧となるようなものだと思っています。困難に際しても振り返って、あの場所で頑張った経験がきっと今に生きている、もうひと踏ん張りしてみようか、とそんな風に自分の背中を押してくれるような時間をみなさん自身の手で作り上げていってください。とはいってもこれは何か特別なことではなく、友人や先生方に囲まれて送る一生懸命な時間がその自分を自然と作り上げてくれるものと思いますので、遠くに目標を持ちながらも日々を精一杯送ることが大切だと思います。
壺溪塾がこれからも後輩である塾生一人一人が切磋琢磨できる魅力的な環境であり続けますことを心から祈念し、お祝いの言葉とさせていただきます。
平成28年度生
後藤 昇 様
Noboru Gotou
学んだ日々は貴重な財産
壺溪塾90周年おめでとうございます。今の私は、貴塾での大きな学びの上で存在します。歴史のある壺溪塾にて、実力のある講師の方々より学んだ日々は私の貴重な財産となっています。先生方はじめこれまで素晴らしい壺溪塾を作っていただいた皆様に、まずは深く感謝申し上げます。
振り返ってみると、私の受験生活は壺溪塾とともにありました。高校3年の9月、「壺溪塾の自習室がものすごく集中できる」と友人に勧められたのが、壺溪塾に入ったきっかけです。ピンと張り詰めた自習室の雰囲気は、入る度に緊張しましたが、いざ席に着くとその独特な緊張感が自分を奮い立たせてくれました。壺溪塾での学びを経て、翌年の春、清々しい気持ちで志望大学へ入学することができました。私にとって大学受験は、今でも自分に自信を持たせてくれる貴重な成功体験の1つとなっています。
大学3年の4月、漠然と志していた熊本市役所職員になるという目標について、達成までのプロセスを自分なりに考えました。壺溪塾に通い大学受験に成功したときの経験が印象に残っていたことや、伯父が壺溪塾の職員であったこともあり、壺溪塾への入塾を決意しました。壺溪塾で学んだ日々を振り返ると、あっという間の半年間でした。講師の方々の分かりやすい授業、仲間と互いに教えあった時間、今思えば様々な人に支えられた半年でした。私は自分に甘いところがあり、逃げ道を作ってしまうと甘えてしまう人間だと自覚しておりましたので、試験期間中は退路を断つことを意識して取り組みました。周りには、就活して民間の企業を受けることも勧められました。就職先が他に決まっていることで安心したい気持ちはあったのですが、私の場合はその安心感が努力を妨げると思っておりましたので、結果的にはどこも受けませんでした。半年間過ごす中で、自分に逃げ道がない状態というのは、ものすごく不安でしたが、同時に危機感からくる毎日の妙な集中力は、私の大きな原動力となりました。
他に逃げ道を作らずに、嫌でも集中しなければならない状況を作ることから始まった試験勉強でしたが、結果的に「熱中」することの大切さを学びました。試験期間中を振り返ると、熱中すればするほど、その教科を好きになっていたように思います。私の場合、試験期間中、最初に好きになったのが経済学でした。その教科を好きになると、授業中の先生の何気ない話や日頃のニュース等で聞いたことが、不思議と頭に残るようになっていきました。経済学を例に挙げましたが、政治学や法律系など好きになることで、より学習に対する熱量が上がっていったことを覚えています。小さい頃、ゲームやサッカーにハマっていたような感覚だったように思います。私自身小さい頃は、好きなものにハマることが多い方だったと記憶していますが、まさか公務員試験の時に、自分自身を追い込み、ハマる感覚を経験するとは思いもしませんでした。今では「熱中すること」が、私の中で生きる上での大事な指針の一つとなっています。仕事でも趣味でも「熱中」したものとそうでないものとでは、後に残るものが大きく違います。仕事柄、よく公務員は「ゼネラリスト」を理想の姿の一つに挙げられることが多いですが、「スペシャリスト」になる意気込みで各分野取り組んできたものとそうでないものとでは知識や経験の幅に大きな差が出ます。第4次産業革命を迎え、AIやIOTなど技術革新が進む中、これからの時代は、よりいっそう個の力が問われる時代になっていくと思われます。私自身、歴史ある壺溪塾で学んだことを誇りに、偉大な先輩方に恥じぬよう、日々精進し、自分で選択した今に向かって「熱中」していきたいと思います。
平成28・29年度生
熊本大学医学部医学科
池上 大樹 様
Hiroki Ikegami
「熊本は壺溪塾」
中学生の頃から、私は医者になることを夢みて勉強にスポーツに励んだ日々だった。高校3年生の冬、熊大医学部の受験を向かえたが、結果は惨敗。合格点には100点以上も差があり、正直、医学部合格という壁は何百メートルも何千メートルも高く感じた。
失意のどん底で浪人を決意するわけだが、そこで父が勧めてくれたのが壺溪塾だった。父も浪人時代を壺溪塾で過ごした1人で、その時の私に壺溪塾での思い出も含めて壺溪塾の良さを語ってくれた。私は絶望の最中だったが、なんだか浪人生活に少しのワクワクを感じて救われた。
入塾後は、勉強だけに集中して、毎日毎日勉強漬けの日々だった・・・と言いたいところだが、決してそういうわけではなかった(良い意味で)。和気藹々としたクラスルーム、2週間に1回行われる体育、バレー大会、藤崎宮秋の例大祭の随兵行列、スクールバスでの会話、勉強したことよりも色濃く記憶に残っている出来事がたくさんある。効率の悪い勉強を長時間するのに比べ、洗練された授業を受け、”息抜きして”、復習して、”息抜きして”、復習して、のようなメリハリのある勉強生活のほうが、身も心も元気に頑張れる秘訣となった。知人に、「壺溪塾で浪人するメリットは何?」と聞かれることがよくあるが、私は自信を持って、「浪人が楽しく感じること」と答える。父もそういう気持ちで、壺溪塾での浪人を勧めてくれたに違いない。
今回寄稿させていただくことになったのは、壺溪塾創立90周年記念誌である。・・・「90周年!?」この依頼を受け取った私の第一声はこれだった。どこかの記事で、起業して10年会社が残る確率は3%ということを目にしたことがある。改めて壺溪塾の凄まじさを思い知った。長年の支持があるのも、ものすごい合格実績の賜物ではあるだろうが、では合格以外にどんな恩恵があるのか、私独自の?目線で考えてみた。
まず、友人が増えることだ。一般的な浪人のイメージは、勉強だけするのだから新たな友人関係なんて生まれない、必要ないといったものだろう。そんなことない。壺溪塾に入ってすぐ、私が在籍したクラスでは、自己紹介が始まった。そこでその人がどんな人なのかがわかってきて、初対面のひとでも、そこまで隔たりを感じずに話すこともできた。行き帰りのスクールバスでは、席が近くの人と会話をして距離が縮まった。こんな風に、どんどん友人が増えていった。受験勉強はやはり一緒に頑張る仲間がいないと辛さが倍増してしまう。高校からの友人、壺溪塾で新たに出会った友人、みんなと頑張っていける雰囲気が壺溪塾にはある。そして、壺溪塾で新たに出会った友人とは、別々の大学に行っても時々集合し、いまでも仲良しである。父だって、50歳を超えた今でも壺溪塾時代の友人と連絡を取り合っているくらいだ。
もう一つは、職員の方全員が優しくて親しみやすいことだ。まず、授業を担当する講師の方々。授業では合格に直結するポイントをわかりやすく丁寧に、ときにはユーモアも混じえて教えてくださる。高校で一度は学習した内容でも、どれも新鮮に感じるぐらい面白くて授業に没頭できた。授業外でも、質問対応やときにはプライベートの相談まで・・何でも聞いてくださった。次に、警備員の方々。夏の暑い時も冬の寒い時でも、私たちの安全な通塾等を笑顔で見守ってくださった。勉強に疲れた時でも、警備員さんのかけてくださる優しい一言に元気をもらった。
そして何と言っても、担任の先生。一言でいうと絶対的な心の支えとなる人。塾生のことを第一に考えた指導で安心して勉強に打ち込む環境を作ってくださった。このような職員の方々がいらっしゃるからこそ、壺溪塾のアットホームな雰囲気が生み出されるにちがいない。
受験は結果が全てかもしれないが、その結果に至るまでの最高の過程を提供してくれるのが、壺溪塾である。これから100周年、そしてその先もずっと壺溪塾が発展し続け、多くのひとが壺溪塾で受けた恩恵を胸に自分の将来に希望をもち、新しい生活を迎えることを強く願っている。
私は、何年先も胸を張ってこう言うだろう、”熊本は壺溪塾” と。
令和30年度生
西口 悦希 様
Yoshiki Nishiguchi
努力と強い意志
私は、令和元年に行われた熊本市上級消防職の試験で無事合格することができました。しかし、合格までの道のりは険しく、1年の歳月と沢山の周りの方々の支えがありました。特に、二次試験の論文対策では、木庭先生をはじめ、壺溪塾の先生方の尽力の賜物だと思っています!
私は、論文に関しては本当にひどく、私の書いた最初の論文は悲惨でした。そこから、毎日最低1本以上論文を書き、木庭先生に添削をお願いする日々でした。本番までは2週間しかなく、焦りもあり、なぜこんなにも書けないのかと自分の不甲斐なさに苛立った時もありました。そんな時でも、木庭先生は私に声をかけてくださり、他の壺溪塾の先生方も応援してくださいました。そして、試験当日は無事しっかり書くことができました。
今回の熊本市上級消防試験合格を通して、得たことがあります。それは、なんでも努力しないことには始まらないということです。当たり前のことを言っていますが、これが一番難しく、続けることがどれだけ苦痛かということが、今回の試験期間を通して痛いほど分かりました。そして同時に、その努力が公務員試験において合格に1番必要なことであるということも分かりました。私の悲惨な論文も2週間で合格ラインまで上がったのは、絶対に合格してやるというブレない強い意志があったからだと思います。そして、その意志が毎日論文を書くための原動力となりました。何か1つ大きな目標を持ちます。その大きな目標を達成するために必要な小さな目標をたてます。目標が明確になると、努力をすることが苦痛ではなく、やる気に変わると思います。今回だと、熊本市上級消防職に合格することが大きな目標であり、そのために必要な小さな目標が、論文を2週間で合格ラインまで上げるというものでした。
人は、みんな才能や学力が違います。少し努力すれば合格する人もいれば、たくさん努力しないと合格しない人もいます。でも、公務員試験においては、努力をしないで合格する人はほぼいないに等しいと思います。自分は頭が悪いとか、論文嫌いだなと思って、最初から努力することを止めるのは絶対にやめてください。絶対努力すれば、自分にとってなんらかの形でプラスになります。そして、公務員に絶対なってやる、働いてやるという強い意志を持ち、努力を続けてください。すると、自然と壺溪塾の先生方や周りの友達がその努力を必ずサポートしてくれます。私も、偉そうなことを長々と書きましたが、みなさんは自分が希望する職業になれる資格を持っています。最後まで決して諦めずに、先生方や友達のサポートをしっかりと受けて、希望する職業についてください。
ちなみに私は、二次試験は1位でした。
令和元年度生
鹿児島大学工学部
竹田 順成 様
Kazunari Takeda
自分で学ぶ力
壺溪塾創立90周年おめでとうございます。私は壺溪塾に1年間お世話になりました。小さい頃からサッカーをすることしかできず、自分が浪人の道を選ぶ事になるとは考えてもいませんでした。私が壺溪塾に入塾することを決めたのは高校3年生という受験生にしては早すぎる時期でした。
私は大津高校でサッカーをしていて3年生の夏頃にサッカーを諦め勉強をすることを決断しました。しかし、今まで勉強を真面目にやってきたことはなく高校の環境もそこまで真剣に勉強する場でもなかったためセンター試験を受けましたが、国立大学を受験するには厳しすぎる点数でした。大学二次試験の雰囲気を知るために熊本大学理学部を受験しましたが、当然不合格でした。そして、壺溪塾で1年間頑張ることにしました。
私の兄も壺溪塾に入塾しましたが、5月という早い時期に辞めてしまいました。そのためもあり、母は勉強を今までしてこなかった私が壺溪塾で浪人することを決めた際は兄のように辞めてしまうことをとても心配していました。私はサッカーで良い結果が出ず、勉強は兄のようにできるわけではなかったのですが1つのことに必死に取り組むことは誰にも負けないと思っていたので、1年間やり通せるだろうと思っていました。
私の中で浪人生活はきつく常に勉強だけをしているイメージがありましたが全然違いました。共に浪人生活を頑張る仲間と講師の人達に恵まれ、とても楽しく学ぶことができました。予備校の中でも壺溪塾は他の予備校と違い、勉強するだけではなく行事も豊富で遠足やバレー大会、藤崎宮秋の例大祭など気分転換もすることができます。私は本格的に受験するため勉強するのは壺溪塾が初めてだったため、先生達の行う授業がとてもわかりやすく、予習復習を徹底すると少しずつ成績が上がってきました。
私の兄が塾生だったときの担任の先生であった、吉本進先生と塾長先生が私のことを気にかけてくれて勉強のサポートをしてくださいました。その際、各教科別の勉強の仕方や重要なことなどを丁寧に教えてくださったのでどのように勉強したらよいかなどで悩むことはありませんでした。私は化学が好きで少し得意であったため、吉本先生には大変お世話になりました。
壺溪塾は自習時間もとても大切にしている塾で朝は7時から夜は9時半まで自習することができるため、私はできるだけ朝イチに来て夜は最後まで残り勉強しました。自習時間には友達にわからないことを聞いたり、先生に1対1で対応してもらうことで少しずつわかることが増えてきたように思いました。自習時間と授業の時間を有効に過ごすことでセンター試験の点数は1年で170点以上もあげることができました。
私の家庭は母子家庭で男3人兄弟を母が1人でずっと育ててくれたため、熊本大学に合格し家の手伝いをすることが1番の恩返しだと思い、熊本大学理学部を受験しましたがあと10点足らずまたも不合格になりました。あと1年浪人することも考えましたが、家計が厳しかったため後期の鹿児島大学工学部化学工学プログラムの対策を必死に行いました。先生方が小論文を見てくださったおかげもあり、後期で鹿児島大学に合格できました。
勉強以外のことで壺溪塾に入塾してできた新しい友達とは大学が違っても連絡を取るほど仲良い友達をたくさんつくることができ、それぞれの場所でお互い頑張っているため良い刺激にもなっています。
今の世の中コロナウイルスの影響により、多くの大学が授業をリモートで行っています。私も全ての授業がリモートになり、物理を基礎から学ぶことになりましたが、壺溪塾で養った自習する力のおかげで、物理基礎を独学で学び終えることが出来ました。壺溪塾での自習する力はこれから先に何かを独学で学ぶ時に必須になる能力であると感じました。
壺溪塾は勉強するための最高な環境を提供してくれる塾です。講師の全ての方、そして事務の方もとてもサポートしてくれます。壺溪塾がこれから100周年以上先までずっと続き、1人でも多くの浪人生が私のように友と切磋琢磨し、自分の将来を切り開いていけるようになることを願っています。
令和元年度生
鹿児島大学医学部医学科
菊川 和奏 様
Wakana Kikukawa
日誌と一年
私は壺溪塾でお世話になり、現役時代からの第一志望校であった鹿児島大学医学部医学科に合格できました。浪人時代の心の支えとなったのは、壺溪塾の先生や家族のサポート、友人との会話でした。そして私が四月から始めていた木庭塾長との日誌のやりとりも合格への後押しになりました。模試が終わって自分自身の振り返りに手応えを記録したり、勉強に疲れたとき気分転換に書いたりしていました。意気込みや今後の目標を文字に起こして可視化し、それを人に見てもらうこと、更に時折自分で見返すことは自分のモチベーション維持に役立ちました。壺溪塾で過ごした一年間を日誌を引用し振り返ってみます。
「5/12(日)先日の壺溪記述模試、数学では数Ⅲが取れず、解けるべき問題もミス多発で惨敗を喫しました。まずすべきことは、取れて当たり前の問題の失点を徹底的に無くすことだと痛感しました。自己分析に活かします。」→この時期は苦手であった数学Ⅲに力を入れていたにも関わらず、思うように取れなかったので辛かったです。そして取りこぼしの多さにもショックを受けました。この模試以来、後の問いにも影響する要となる計算は数回確認する、解きながら一行ずつチェックする等実践しました。今になって考えてみると、このテストでの散々な結果は良い戒めになりました。
「11/12(火)嬉しい報告があります。英検準一級無事合格しました!鹿大のセンター英語はみなし満点になるので嬉しいです。この波に乗って、他の教科でも点数を取りたいです。」→一度目の試験で落ちてしまったときはとても落ち込みましたが、木庭塾長は努力は無駄にはならない、と励まし奮い立たせてくださいました。二度目の試験では合格して吉報を届けようと決めていたので無事報告でき良かったです。
「1/1(水)あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。壺溪の自習室は元旦も開いていて本当に有難いです。今日もたくさん人来ていますね。」→この日の日誌に対して、塾長は「明けましておめでとう(本当のおめでとうは春に言いますね)」とコメントをくださいました。この時期はセンター試験も近くかなり疲れてしまっていたので、この言葉を見てやる気を出すことが出来ました。
「3/7(土)鹿大医医、合格しました!!本番では一科目めの数学で手応えが無く焦りましたが、残りの科目で取り返してやるぞ!という気合いで頑張りました。そう思えたのも担任の先生や両親その他色々な人に良い報告をしたいと思えたからです。思えば本当に不安な一年でしたが、第一志望校に合格でき本当に良かったです。入学後も夏休みの医進座談会など参加するつもりですので、今後もよろしくお願いします。」→対して塾長は「鹿児島大学医学部医学科合格おめでとう!本当のおめでとうが言えて嬉しいです!素直で真面目でひたむきな菊川和奏さん。日誌を読み直すといろんな場面がありましたね。調子が出ないときも一歩一歩前に進もうとしているあなたから私が励まされました。きっと素敵な女医さんになられることでしょう。これからが大変ですが、壺溪で培った姿勢を大切に困難を乗り越えていってくださいね。持ち前のさわやかな笑顔を忘れずに。日誌、読むのがたのしみでした!ちょっぴり寂しくなりますが、いってらっしゃい」とのコメントをくださいました。
これらは日誌のうちのほんの一部です。一年間のやりとりでさらに沢山の思い出ができました。日誌を読み返すと今でも浪人中の気持ちがよみがえります。これからの人生、多くの困難が待ち受けていると思いますが、壺溪塾で学んだ日々を思い出し頑張っていきます。
平成4−5年生物非常勤講師
崇城大学教授
川副 智行 様
Tomoyuki Kawasoe
壺溪塾という場のエネルギー
もう30年近く前になる。熊大生物学科4年生であった私が大学院に上がるとき、「壺溪塾で生物の授業をやってみないか?バイトで!2年間できる?」と大学院を修了される先輩に声をかけてもらった。指導教官も壺溪塾出身で後押ししてくれる。仕送りがなく自活の苦学生であった私にとっては、こんなに美味しい話はない。もちろん二つ返事だった。家庭教師を山ほどこなし、学習塾講師や教育実習を経験した私には、それなりの自信もあった。また、学生でありながら熊本の有名な予備校の先生という響きは、なにか勲章を手に入れたような誇らしい気分であった。最初の授業、当然準備万端で臨む。だが、決して満足できるレベルではなかった。なぜか?それは塾生の眼差しがあまりにも素直で真剣だったから。まるでレーザービーム。すっかり飲み込まれてしまった。私はここで思い知った。真剣なエネルギーには真剣なエネルギーで応えなければならないことを。そして、受験のコツやノウハウを教えるのではない、魂を込めて全力で教えなければならないことを。
佐賀県出身で、福岡の親不孝通りにあった予備校で浪人生活を送った私は、壺溪塾のような信念のある予備校を知らなかった。どの予備校も大学生の量産を目的としており営利的な雰囲気が漂う。私は1年間の予備校生活を経て熊大に合格したが、その間に人間的に成長したとは思っていない。予備校は、ただ大学生へと導いてくれるサービスの場所だった。しかし壺溪塾は違った。受験勉強を通して心の成長を促す温かい雰囲気がある。それはあたかも大学合格は通過点にしかすぎず、塾生の将来的な夢を叶えることまでも視野に入っている感じであった。
話を戻す。初回の反省により授業での全力投球を始めた私は、手ごたえを感じ始めた。塾生と全力を競い合うような感じである。私の中に、もっと上手に教えたい!という気持ちが湧き上がった。ただ、当たり前であるが、元々私と塾生は何の関係もない。家庭教師のような直接的な契約関係でもない。壺溪塾という学びの場で、いわば偶然出会った関係である。しかし、教える側も教えられる側も切磋琢磨する。いつの間に壺溪で教えることが楽しくてたまらない。頼まれもしないのに、授業の後に補講をやったり、添削プリントをやったりとできることはなんでもやった。時には添削で徹夜をしたこともあった。未熟な私すら熱くさせるもの、これが壺溪塾の哲学が作り上げる場のエネルギーではないだろうか。私の2年間の大学院生活は、大学での研究と壺溪塾での授業が中心となり、塾生を教える立場の私が、壺溪塾と塾生に育ててもらうことになった。
それから25年後、私は崩れる熊本城の姿をテレビで見て、塾長にエンカレッジを目的としたボランティア講演を願い出た。嬉しいことにそれ以来5年間、年1回壺溪塾の教壇に立たせていただいている。伝統を守りながら、外部の知を受け入れる多様性と許容力。これも壺溪塾の強みなのかも知れない。時は流れ、人も懐かしい校舎も変わり、やり方も変わる。しかし壺溪の哲学と場のエネルギーは変わることはないだろう。壺溪塾は、壺溪塾という名の熊本のブランドなのだと思う。予備校という機能に関わりがなくても、日常生活で見たり聞いたりするシンボルであり、極端なことを言えば熊本城と同じなのではと思う。
生物講師として自分の姿の載った壺溪塾のパンフレットは、修士論文と一緒に大切に保管している。経済的にかなり苦労した私にとって、大学での研究と壺溪での経験は、社会に旅立つ前にたくさんのことを教えてもらった原点である。そして最後に心から思う「壺溪塾90周年おめでとうございます。いつでも応援しています」と。
倉迫 潤 (旧姓:小村)様
Urui Kurasako
私にとってのホーム
私の22歳の誕生日の出来事である。その日は台風接近中で朝から灰色の雲が空を覆っていた。しかし雨は降っておらず風はあるので、真夏の暑さは幾分和らいでいた。「せっかくの誕生日なのになぁ…」そんなことを考えながら私はリクルートスーツに身を包み、バスに乗った。市内中心部で行われる就職説明会に参加する為である。バブル崩壊後の就職氷河期で就職が決まらない学生が多かった時期である。確たる信念も展望もないまま何となく就職活動をしていた私のような学生は尚更であった(一応教育関係中心と考えてはいたが)。当時通っていた大学で非常勤職員をしていたので職員の方からは「嘱託の席が空くから、そのまま嘱託で残りなよ」と言われ、両親からは「公務員試験を受けるなら就職浪人してもいい」と言われた。それもいいかと思わないではなかった。しかし私の中の何%かはそれをきっぱり拒否していた。嘱託は数年で期限が切れるし、浪人するほど公務員になりたい訳でもない。ゆえに私は就職活動を続ける道を選んでいた。
就職説明会が行われるホール前には既にリクルートスーツ姿の人だかりができている。私は配布された資料に目を通した。
『壺溪塾』
その名前には覚えがあった。幼馴染の彼氏が通っていた予備校である。「頭がいい人しか入れないんだよ。」幼馴染はそう自慢げに言っていた。「そんな予備校があるの?変なの。」そう思ったことを今でも覚えている。
事務職メインで募集をしている企業は壺溪塾以外にはない。開場後に求職者の長蛇の列が出来るのは容易に予想できた(そしてその通りだった)。「最初に駆け込もう」そう決めた。会場の配置図をチェックし、開場と同時に私は壺溪塾のブースを目指して一気に走った(信じられない人もいるかもしれないが、本当に皆ダッシュしていたのだ)。何とかトップでブースにたどり着き、二つ並んでいた椅子の一つに座り「おはようございます!」と満面の笑みで顔を上げた。目の前には私のような子供じみた笑顔ではなく、エレガントに微笑む二人の女性の姿があった。木庭順子先生、境信子先生のお二方である。
その後、縁あって壺溪塾で雇って頂いた。よくもまあ、あんな風変りで世間知らずの甘ちゃんを拾ってくれたものだと思う。昔の自分を思い出すと赤面ものである。正直ご迷惑をかけた記憶しかない。しかしそれにも関わらず、本当に可愛がって頂いて、本当にお世話になった。色んなことを教えて頂いた。
現在私は結婚して他県に住んでいる。先日帰省の折、私の茶道の師匠である木庭澄子先生をお訪ねし、塾の事務室にも顔を出した。お正月の最初の日曜日で職員の方は多くはいらっしゃらなかったが、境先生が25年前と変わらないエレガントな微笑みで迎えて下さった。三藤先生、塩山先生にもお会いできた。お二方とは接点があまりなかったにも関わらず、覚えていて下さった。そして笑顔で迎えて下さった。その時こう思った。「ああ、アウェー感がないっていいなぁ」と。壺溪塾は私にとってのホーム、原点のようなものなのだろう。だからこそこんな感情が自然に湧いてきたのだと思う。そしてそれは多くの人達、卒塾生や職員OB・OGにとっても同じではないだろうか。
創立90周年、本当におめでとうございます。皆のホームである壺溪塾が、これからも益々栄えていきますことを、心よりお祈りいたします。
繋がる想い
壺溪塾90周年に際し、各方面の方々よりメッセージを頂きました。永きに渡る壺溪塾の歩みの中で、
繫がりのある方々からの、嬉しいお言葉・想いを胸に、壺溪塾はこれからも歩んでいきます。
熊本県知事
蒲島 郁夫 様
Ikuo Kabashima
昭和43年度生
原田 信志 様
Shinji Harada
昭和41年度生
中山 峰男 様
Mineo Nakayama
昭和46年度生
古島 幹雄 様
Mikio Furushima
昭和39年度生
陶山 建二 様
Kenji Suyama
昭和42年度生
武原 重春 様
Shigeharu Takehara
昭和54年度生
友田 明美 様
Akemi Tomoda
昭和55年度生
前田 康裕 様
Yasuhiro Maeda
昭和57・58年度生
西村 宏貴 様
Hiroki Nishimura
昭和58年度生
角野 弘幸 様
Hiroyuki Kakuno
昭和57・58年度生
馬場 太果志 様
Takashi Baba
平成10年度生
山下 達也 様
Tatsuya Yamashita
平成26年度生
永松 基記 様
Motoki Nagamatsu
平成28年度生
後藤 昇 様
Noboru Gotou
平成28・29年度生
池上 大樹 様
Hiroki Ikegami
平成30年度生
西口 悦希 様
Yoshiki Nishiguchi
令和元年度生
竹田 順成 様
Kazunari Takeda
令和元年度生
菊川 和奏 様
Wakana Kikukawa
平成4−5年生物非常勤講師
川副 智行 様
Tomoyuki Kawasoe
職員OG
倉迫 潤 (旧姓:小村)様
Urui Kurasako