壺溪塾

わたしを語る

~熊本日日新聞読者のひろばに掲載~

第2回 漱石先生に叱られた祖父

中央が祖父木庭徳治、祖母テル(前列右)に抱かれているのが私

幼い頃、私は可愛げのない子だった。壺溪塾初代塾長木庭徳治と妻テルの間には子がいなくて、祖父は教育長を務めた中満清人の長男の令一(二代目塾長木庭令一)を養子にもらった。ちなみに中満清人の次男、知生の長女は国連事務次長の中満泉だ。令一は、1951年にテルの姪の子に当たる澄子を妻に迎え、翌1952年に令一と澄子の長女として私は産まれた。自身に子がいなかった祖母のテルは私を猫可愛がりし、私は鼻持ちならない我儘なおばあちゃん子に育った。幼稚園まで祖母のおっぱいを吸っていた。祖父が、熊本女子教育の祖の竹崎順子氏から取って付けてくれた順子という名前にふさわしくない我儘な子だった。

明治生まれの祖母テルは、山口の士族の末裔というのを誇りにしていた。倹約家で教員をしていた徳治とともに東京で少しずつお金を貯め、関東大震災を機に徳治の郷里熊本に帰って私塾壺溪塾を建てた。

祖父は夏目漱石が内坪井の家に住んでいた同じ頃、漱石の家の道路を挟んだ斜め前の家に住んでいた。その内坪井の家は、漱石がもっとも長く住んで気に入っていた5番目の家である。長女筆子が生まれた家で今は漱石旧居として文学散歩に訪れる人が絶えない。その漱石旧居の斜め前の本宅には、今でも木庭の親戚が住んでいる。

徳治は若い頃結核に掛かって左腕を無くしていた。着物を着て右腕だけで門の前を掃いていると漱石先生が通りかかり「なんだ、その掃き方はなっとらん」と指導を受けたという逸話が木庭家に残っている。また祖母は、「漱石の奥様が塩を借りにいらっしゃっていた」と自慢していた。

さてテルは、障子の桟をさっと指で撫でて埃を指摘するような厳しい面を持つ一方で孫の私には「順子ちゃん」と甘い。朝から「お目覚まし」と言ってお菓子をくれる。内弁慶の私は、信愛幼稚園に大人の手に引きずられてずるずると抵抗しつつやっと行くという有様だった。風邪で寝込んだときなどにも祖母はいつも本を読んでくれた。神戸の親戚を訪ねた時、家にあるのと同じ本があり、文字を読めるはずのない幼い子がすらすら読むので親戚中「順子ちゃんは天才だ!」ということになったが、母に後々「耳で覚えていただけなのでね。今は平凡な子になったね」と揶揄われた。

グリム童話集、日本の御伽話。祖母に読んでもらった本は数知れない。童話はロマンティックなだけではない。『ヘンゼルとグレーテル』の魔女を火あぶりにする残酷な結末、『安寿と厨子王』の母親が盲目になる不条理もある。小学校に上がると父が旺文社の世界文学全集を取ってくれ、一月に一度来るたびに読んでいった。小公子や小公女、ジェーン・エアや嵐が丘、ドラマティックな主人公の人生を追体験し、ワクワクする喜びを知った。

紹介する本:「ジェーン・エア」シャーロット・ブロンテ、『嵐が丘』エミリー・ブロンテ
シャーロット・ブロンテとエミリー・ブロンテは、イギリスのビクトリア時代を代表する作家です。ブロンテ姉妹は3姉妹ですが、その中で長女がシャーロット、次女がエミリー。それぞれ38歳と30歳で亡くなり早世でした。この二つの著書は、どちらも永遠の愛がテーマです。特に『ジェーン・エア』の主人公のジェーンは美人でも何でもない女性として描かれていて、平凡な容姿の私も感情移入ができました。尊敬するロチェスター卿と後に巡り合い結ばれるシーンは、涙なしには読めない感動長編です。この本を読んだのは中学生の時ですが、後々、次女に英語の本を選ぼうと入った書店で「ジェーン・エア」の英語版があり、読んだところ、その結ばれるシーンに差し掛かり、感動の涙が出て来たので、「英語の本で泣けた」と二重に嬉しくなりました。レベル2の易しい本でしたが。