壺溪塾

わたしを語る

~熊本日日新聞読者のひろばに掲載~

第4回 聖書「愛の教え」に感銘

祖母と母と私

明治生まれ祖母テルの私に惜しみなく注いでくれた愛情は、「愛とは何か」という問いを私にもたらした。1965年から学んだ九州女学院(現ルーテル学院)中学・高校で、新約聖書の「愛の教え」を知った。コリント人への第一の手紙13章の一節である。

聖書には様々な教えがある。「自分の右手のしていることを左手に知らせるな」という教え。善行は誰にも知らせずひそかに行えということだ。つまり自分の名声をアピールするために善行をするな、と解釈できる。有名な「右の頬を打たれたら左の頬を差し出せ」は、自己愛の強い人間に他者を重んじろと諭す教えだ。さらに「お金持ちが天国に行くのはラクダが針の穴を通るより難しい」というのもある。だから富める者が寄付をする文化が欧米に根づいたのか。

「愛の教え」は、これらの多くの教えの中で私がもっとも好きな一節だ。「愛は寛容であり、情け深い、ねたむことをしない。愛は高ぶらない。自分の利益を求めず、いらだたず恨みを抱かない。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える」祖母テルの私への愛情は、この一節にあるような見返りを求めない無償のものだった。私の中に幼い頃注いでくれた祖母の愛がいっぱい詰まっていて、自分以外の人に惜しみなく注げるくらい溢れそうだと感じられる。もちろん「愛の教え」を体現出来るほど人間はできていないが、それでも自分以外の人を、私を嫌っていると感じる人であっても、憎めないし共感してしまったりするのは、祖母のお陰だ。

聖書の教えをベースにした「感恩奉仕」を教育理念に持つ九州女学院の精神は、6年間をそこで学んだ私のアイデンティティー形成に大きく影響を与えた。「愛の教え」を体現したい私とそうできない私が激しく葛藤する。

YWCAに所属し、ボランティア活動をするのも日常だった。バザーの開催や老人ホームの慰問や草取りなどもした。友人と「ボランティア活動は偽善だ」「ボランティア活動は自己満足に過ぎない」などという議論をした。頭でっかちではあったが、「たとえ偽善でもそれを受けた人が満足するのだからウィンウィンだしいいではないか」という結論に達してやり続けた。

映画「ベンハー」に感動し、洗礼を受けようと思って教会の前まで行ったことがある。その日教会はお休みで誰もいなかった。以来、愛の教えを求めながらも体現できていない私に終始し、今も「心を磨く」努力を続けてはいるが、道半ばである。