父はほとんど家にいなかった。今思うと壺溪塾の仕事をものすごく頑張っていたせいだと分かる。また予備校の創世記に全国予備学校協議会という予備校の組織を作り、当時の駿台の山崎理事長等とともに予備校が文部科学省に学校法人として認められる先鞭をつけた。さらに熊本専修学校各種学校連合会の会長を長く務め、広い視野で社会的に意義のある仕事をした。
それは彼に信念があったからだ。その教育的信念は揺ぎ無かった。だから鹿児島に壺溪塾を作ってくれという誘いにも乗らなかったし、熊本に進学のための優秀な私立学校を作ってくれという後に総理になられた当時の県知事の誘いも断った。しかし、外では「木庭先生」と呼ばれ人気者の父を私はものすごく嫌っていた。ほとんど家にいず、いる時には癇癪持ちですぐに怒り、私はその度にびんたを張られる。母も何も言わず仕えていた。家のことは一切しないのに偉そうにしているのを偽善者だと未熟な私は感じたのだ。
ただ父が食卓にいる時に幼い質問をしても「そんな質問は子どもっぽい、答えないよ」と本音で対してくれ、「世界は、地球は…」という大所高所からの話をまったく理解不能な子どもの前でも語る父。その教えが今心に沁みる。父は家庭的にも素敵な教育者だったのではないか。「金儲け」意識のかけらもない父。東京や名古屋の予備校が全国につぎつぎと展開していく中で、木庭令一だけは一切他の予備校に失礼なことはしないという当たり前の価値観を重んじ、熊本だけで運営し続けた。父は家にほとんどいなかったが、食卓で理想を語る父、日本の先行きを心配する父、私の中に広い時間軸と空間軸が育ったのは、父のお陰である。
父が塾長である間、続けた静坐は、祖父の代から壺溪塾に伝わったもので、心を無にして勉強にすっと向かい合う一つの方法だ。禅寺での修行法の一つを塾生が集中力をつけるのに応用したのだ。その静坐の後、講話といって自分のメッセージを伝えるのが父の常で、私も現在それを真似している。始業前の10分間のうち静坐を2~3分組む。そのあとチャイムが鳴るまで話すから、7~8分の話だ。しかし父の講話はもっと長引き、「世界は、、、日本は、、、」と語る話が熱を帯び、授業にまで食い込むことが度々だった。曰く「人間の成長のカーブは人それぞれだ。伸びるのが遅いからと言ってくさってはダメだ。遅くても必ず伸びると信じて努力を怠るな」「自分の成績を恥じるな。Shameは無駄だ。そんな暇があったら勉強しろ」怒ると怖い。裸足で塾生を追いかけ、捕まえるとゴツンと一発!なども度々で、時代が違ったからではあるが、若者にも真剣勝負の教育者木庭令一だった。