報道部に入って間もない頃、泊りの取材先で、あるカメラマンから「木庭ちゃん、あんた何かしたの?」と言われた。「はい?何ですか」と聞くと「こないだのあんたがいない会議で木庭ちゃんが生意気だと記者や何人かのカメラマンが言ってたよ」とのこと。私はガーンと来た。「こんな悪口は絶対に直接本人に来ない。卑怯だ!」と心の中で叫んだが、何も解決しない。手を胸に当てて考えてみた。そうだな、先輩記者から「木庭ちゃん、ニュースのバックに流すレコード選んできて」と頼まれた時「自分で選んでください」と断ったなあ。当時、放送局には「レコード部屋」と呼ばれていたレコードライブラリーがあり、記者はバックグラウンドミュージックをそこで選ぶ。年配の記者は、自分はあまり音楽に詳しくないが木庭は若いセンスで選べるだろうと思ったに違いない。それをにべもなく断っちゃった。またカメラさんに「こう撮ってください」「ああ撮ってください」と注文が多かったなあ。だってアングルのセンスが悪いんだもの。と心の中で不満を吐露したが、何も解決しない。しかし、改めて先輩諸氏への対応の生意気さを自覚した。
どうしよう。取材のレベルを下げたくはない。それなら、とこれまで以上に柔らかな対応を心掛けた。お茶くみの是非はあるが、取材から帰ったら、チームを組んだカメラさんにお茶を笑顔でさっと出す。頼まれた仕事はどんなに自分が忙しくても絶対に断らない、などなど。何より、大儀(ここでは報道倫理の実現:視聴者のためにいい仕事をすること)のために他者からの評価を上げる努力をすることにした。評価されないと誰も言う通りに動いてくれない。ただ本音で言うと陰口はもっとも私が嫌うものだ。叩かれる人は、私のように本音を重視し、どこか日本社会の常識とは外れた匂いを出す人が多い。しかし、実はそんな人のアイデアや個性的な視点こそ組織を活性化するものではないのか。
「和を以て貴しとなす」という聖徳太子以来の価値観は、日本社会に表面上の平和と安定をもたらした。しかしそこにはプラスとマイナスがある。そして現在のようなものごとをフレキシブルに変革していかなければならない社会では、表面上のオブラートに包まれた「和」が、前に進むのを妨げることの方が多い。本音の議論、歯に衣着せぬ物言いは、時にコミュニケーション能力がないとのレッテルを貼られるが、私は率直な物言いを、できれば「感じよく」したい。