壺溪塾

わたしを語る

~熊本日日新聞読者のひろばに掲載~

第22回 気高く美しい心臓の煌めき

生まれたばかりの長女を囲む私と夫の家族

1981年4月。私は壺溪塾卒業生で熊大医学部医学科放射線科の医局に研修医として勤務を始めた興梠征典と結婚した。興梠順子としてしばらく仕事を続けていたが、子どもがなかなか授からない。産婦人科に行ったら、あまりにハードな仕事を減らした方がいいのではとアドバイスをもらった。思い切って退社することにした。ほどなく一人目を授かったが、その子を含め2回流産してしまった。主治医からは習慣性流産になることもあると告げられていた。

3人目を授かったとき、不安の中で妊娠6週目の超音波検査を受けた。最初と2度目の妊娠は、稽留流産というタイプのもので、子宮で胎児が育たないまま終わってしまった。その2回とも超音波で見る胎児を包む胎嚢はそら豆のような真ん中がひしゃげた形をしていた。それが3回目、超音波の画像に写った胎嚢はぱーんと張り切った丸い形に膨らんでいる。そしてその真ん中に心臓がチカチカチカと輝いていた。命の美しさ、気高さに触れた瞬間だった。

小さな煌めきがお腹の中で少しずつ大きく育ち、お腹の皮を内側から蹴るくらいまでその存在感が増していく。女性は胎児をお腹に宿し、少しずつ母になっていくものだということを実感した。そして産むときの猛烈な痛み。特に最初の子は、軟産道強靭と後に診断されたが、平たく言うと産道が堅く頭が潜り抜けづらかったのだ。痛くて痛くて到底乗り切れるとは思えない。そんな長い時間をプライドと汗と看護師長さんのさすって下さる手で乗り切った。最終局面で、壺溪塾卒業生の主治医伊藤昌春先生がお腹の上に馬乗りになり、お腹を押してくださった。

分娩室の外の椅子に座って待っていた私の母澄子と主人の母スマ子が二人で長女の高いうぶ声を聞いた。熊大病院で産んだので、当時そこに勤めていた夫がすぐに来て、ベビーケースを覗き込んだ後姿をホッとして眺めた。私もきつかったが、長女もさぞや生まれる苦しみを味わったことだろう。長女は病院でよく泣く子だった。「あら、また興梠さんの赤ちゃんの泣き声が聞こえる」と看護師さんたちが笑っておっしゃる。長女の高い声はよく通り、自宅に戻ってからは、3時間に1回の母乳、というルールを守るために、泣くのをなだめて抱っこしたりという奮闘が始まった。新米ママは真面目で一生懸命だった。

次女は拍子抜けするくらいさっと産まれた。慣れているので赤子を扱うのも手際よく速いし、ルールなどどうでもいいと気持ちもゆったり構えていられる。二人の娘を得た私は二人とも母乳で育て、専業主婦としてしばらく子育てに専念する時間を持った。