壺溪塾

わたしを語る

~熊本日日新聞読者のひろばに掲載~

第23回 家族3人でアメリカ生活へ

渡米前の1988年、1歳の長女の子育てに一生懸命だった私

長女を授かって1年半後の1988年秋、夫が米国のUCLA(カリフォルニア大ロサンジェルス校)に留学することになり、家族3人で渡米した。1985年にプラザ合意が行われた3年後、円の価値が高まり、エズラ・ボーゲル著の『ジャパンアズ№1』がベストセラーになった時期だ。

「日本人のお金持ちの買い占めにより高級住宅地ビバリーヒルズの地価が高騰。映画会社コロンビアを日本が買収、アメリカは日本人に魂を売るのか。けしからん」顔の見えない日本人はエコノミックアニマルと呼ばれた。日本にいれば感じない差別意識。トランプ後はアジアンヘイトが表面化したが、その頃のアメリカでも日本人はマイノリティーで顧みられない存在だという事実を思い知った。

渡米してすぐにすることは住む場所を探すことだ。レンタカーを借り、モーテルに泊まりながらRENT(貸します)という立札のあるアパートメントを見つけ、そこに住むマネージャーと交渉する。1日、2日と経つがなかなか見つからない。そこで夫がUCLAから紹介を受けたアパートメントを訪ね、マネージャーの女性と交渉を始めた。彼女は夫や私、小さい長女を見て「部屋は空いていない」と言う。夫はあれ、間違いかなと引き下がろうとしたが、私は一歩踏み出して「空いているはずです。夫はUCLAにこれから勤務する医者でここを紹介されてきたのですから」と片言英語で主張した。アメリカに行った時、私は発音の綺麗さをアメリカ人に誉められたこともあり、片言英語が通じたが、帰る時には夫がペラペラになり私の英語のレベルは変わらなかった。それはさておき私の報道部時代に培った一歩踏み出して主張するという癖はアメリカでも健在で、後々このアパートメントはUCLAから紹介されたのとは違うものだと分かったが、マネージャーがOKを出したので、無事治安の良いウエストウッドのバデューという通りに面したアパートに住むことになった。ちなみにそのマネージャーの白人女性にアメリカ滞在が終わって出て行く時に「あなたたち家族はあり得ないくらいいい人たち」と誉められた。室内用に買った手入れの良いグリーンをプレゼントしたからでもある。一歩踏み出してアピールする大切さ、普段から笑顔で接すればどの国の人でも大抵は好意を抱いてくれるということを学んだ。

紹介する本:『Japan as No.1』 エズラ・ボーゲル
1979年に書かれた本書は、当時、70万部を超えるベストセラーになりました。戦後の日本の高度経済成長の要因を分析し、日本的経営を高く評価していて、「今は昔」の観が否めません。1985年ニューヨークのプラザホテルで開かれたプラザ合意により、円のドルに対する価値を高めようと円を切り上げることになりました。前に紹介した森永卓郎氏の『書いてはいけない日本経済墜落の真相』は、このプラザ合意がその後の日本経済を失墜に追いやった張本人だと糾弾しています。その説の真偽はともかくその後円高が進んだのは事実で、これを打開するために行った日本の内需拡大の政策がその後の過剰な好景気をもたらし、結果的にバブルを引き起こしたと言われています。