子どもたちが成長したらもう一度仕事を始めようと思っていた。熊本放送を辞めた時の報道局長で後に社長になった妹尾義徳さんは「木庭ちゃん、また報道部に来てよ」と声を掛けてくださったが、激務に戻るのは無理と判断し、当時資格試験が始まったインテリアコーディネーターになろうと思い、スクールに通った。鶴屋前に校舎のあったインテリアコーディネートスクールの1期生だった。照明機器を選んだり、家具のレイアウトを決めたり、それをパースで表現するのがとても楽しかった。一緒に勉強していた浅井せい子さんは、ニューヨークにも住んでいたことのあるセンスのいい父方の叔母で、後にインテリアコーディネーターになりテレビにも出て活躍した。彼女は料理上手でテーブルセッティングもうまくインテリアのセンスもある素敵な叔母だ。さらに掃除も得意で、彼女の居心地のいい家を8月に中満泉や妹と訪ね、話しが弾んだ。
第1回の資格試験の受験を準備していた時、壺溪塾で働いていた妹二人が「順子姉ちゃん、壺溪が大変、潰れそうだから来て」と言う。四人姉妹の上から二番目と四番目の妹が教務職員として勤めていた。熊本に2校あったもう一つの地元の予備校に生徒募集が圧されているという。その予備校では、特待生制度を設け、じりじりと上位の生徒がそちらに奪われている。そのタイミングでもう1校東京から大手予備校が進出してくる。四人姉妹の長女である私は木庭家では父に物申せる唯一の人材だった。その器量を見込んで、妹二人がそう訴えてきたのだ。私は、当時予備校は客観的に見て必要悪と生意気にも思っていたが、その中で誠に良心的な壺溪塾が無くなるのは間違っていると思った。私はとりあえず昔の報道記者というキャリアを活用し小論文の非常勤講師として壺溪塾に腰掛けで入った。
小論文指導をしながら、気が付くと壺溪塾内で改革委員会を立ち上げ、当時の壺溪塾のお年を召した先生が多いという噂を払拭するために70代、80代の先生のご自宅に菓子折りを携えてまわり出講をお断りするということをしていた。皆さん父への感謝の言葉をおっしゃりさっと引かれた。クラスを細かく分け、担任制度を敷き、テキストをオリジナルにし、学校まわりを始めた。
小論文は得意分野だった。当時、国公立大の後期試験では主に小論文が課されていた。しかし、書くことは苦手な若者が多い。小論文は主張のある論理的な文章。新聞やテレビの原稿もテーマを簡潔な文で視聴者に伝えなければならない。似ている。私は非常勤講師として壺溪塾で小論文指導をすることになり、次女が幼かったので、腰かけで壺溪塾の仕事を手伝うことにした。
ただやってみると奥が深く面白い小論文指導。私は出張でお会いする大学の先生に“取材”し、どんな解答が評価されるのかを探り、こう書けば良いという解答例を自分で書いてみるのが楽しくなった。