私も段々年になり62歳を迎えた頃、出張が重なり、自分でも疲れたなと感じていた週末に、東京に住む3番目の妹の長女が佐賀の人との結婚式を挙げるので、車を運転して会場の嬉野温泉に向かった。夫は単身赴任をしていた北九州から私が着いた30分後に到着。式の前日、両親や妹たち、私の娘たちも集まり木庭一家が結婚式の前夜に嬉野の旅館に揃った。夜ご飯の前にお風呂に入った。内風呂のあと露天風呂に漬かったとき、熱いなと感じた。会食の自分の座布団に座ったとたん、ふらっとして横に倒れた。すぐに救急車が呼ばれ、私は車の中で「興梠順子と言ってみてください」と救急隊員の人に問われたが「・・・・じゅんこ」としか言えず「こうろぎって発音が難しいんだなあ」と思ったが、別に痛くも何ともなかったので大袈裟だなあ皆、という気持ちでいた。幸いすぐ傍に嬉野医療センターという立派な病院があり、一緒に来てくれた医師の夫が「tpaを準備してください」と言ってくれ、倒れてから3時間以内に打つと詰まっている血栓が消えるという薬を投与された。その晩はICUで過ごしたが、ほどなく一般病棟に移れ、脳梗塞だった私は何の後遺症もなく退院できた。私が病院に運び込まれたあと、会食となったが、結婚式の前日というのに皆はまるでお通夜のような雰囲気で、私のことを案じながら無言でご飯を食べたと聞いている。今は、申し訳なかったと思うだけでなく、本当に運が良かったのだと分かる。脳梗塞をおこす人のうち三分の一は死に至り、三分の一は言葉や手足の動きに後遺症が残り、三分の一は後遺症も出ず元に戻れると聞く。その運の良い三分の一に入れたのは、医師の夫や私を気遣う家族が傍にいてくれたからだと思う。
その時の検査で脳動脈瘤が見つかり、幸い二つの腫瘍をコイリングという方法で潰すことができた。この手術は当時日本では治験がやっと終わったところで、主流はクリッピングという動脈瘤の根元をクリップする手術だった。しかし、夫の住む北九州の大きな病院に京都大学からコイリング術で世界的権威の優秀な医師が派遣されていたので、その方に手術していただいた。私の脳動脈瘤には治験後すぐだったので、タダだったプラチナのコイルが埋め込まれている。
私が倒れたすぐ傍にいた次女は東京で自ら選んだ家具の店で総合職として働いていたが、入院している私に「お母さん、私、熊本に帰る」と言う。「やりたい仕事の総合職に受かって楽しいと言ってたのに辞めるの?」と問うと、「お母さんの傍にいたい」と言う。熊本に帰ってきた次女は専門学校の研修会で出会った男性と結婚した。次女は私への大きな愛の故に好きだった仕事を辞めてまで熊本に帰って来て、さらに大きな愛を得たのだと感じる。今、二人の娘の温かいお母さんだ。私が倒れなければ、次女は熊本に帰っては来なかった。熊本に帰って来なかったら、今の夫とも巡り合わなかった。いくつかのご縁が重なり、二人の孫が授かった。不思議なことが起こる中、自らの選択をしながら運命という大きな人知が届かない力を味方につけて私たちは進んで行くのだと思う。