壺溪塾

わたしを語る

~熊本日日新聞読者のひろばに掲載~

第42回 熊本地震から学んだもの

梁山泊寮
寮監長の外口一仁さん(右)と日勤寮監島村昭子さん

後に知るが、熊本地震の特徴は、震度7以上の地震が二度立て続けに起こったこと。震度6弱以上の地震が7回発生したこと。これらは観測史上初めてだ。余震の発生回数は4364回に上る。とにかく最初の大きな揺れの後も、ずーっと揺れていた。6月に次女の結婚式に出るため京都に行った時、いつも大地が揺れている日常が当たり前になっていたので、あれ、揺れないんだと却って不思議な感覚になったのを思い出す。

地震などの災害時には、当たり前と思っていることがそうでないと知り、多面的な指標を自分の中に持つことになる。当時もっとも困ったのは、当たり前と思っている電気や水道、ガスなど現代生活に不可欠なファンダメンタルズが止まることだった。これは阪神大震災でも東日本大震災の際も能登半島沖地震でも現地の方々が実感されたことと思う。私たちは地球の様々な天然資源やその利用技術の恩恵を受けたうえで便利さを享受しているが、そのことに気づくのは災害時くらいなのだ。そして喉元過ぎれば熱さ忘れるの諺どおりすぐに有難味への実感を忘れ、資源を気にせず使う日常に戻ってしまう。

さて、私は二度の地震を経て、余震の続く中、壺溪塾の2号館の応接室に2週間泊まり込んだ。坪井本校には15トンの水のタンクがあり、校舎も寮も事務室でも自由に使えた。おかげで寮生たちは自宅も被災していたので、ほとんど寮に留まり、講師の上野雄一朗、吉本進両名が2週間、自習ばかり続く寮生を対象に質問コーナーを開設してくれ、無事新学期に繋げられた。母は電気が復旧した後、大根飯やポテトサラダなどを作って差し入れてくれ、母の美味しいおかずを食べるのも楽しみだった。

自宅の被災がひどかった近所の方数名が、6号館の1階のフロアにしばらくおられた。水が出るのを聞きつけて水を汲みに来て、辛いと泣き出す職員もいた。2週間後に近くの銭湯に行き、並んでやっと中に入れたが、裸になって湯舟への入り口の扉を開けるとそこにも何人も並んでいたので絶句。エピソードにこと欠かなかった。4月初旬という季節は寒からず暑からず、私は2週間もお風呂に入れなかったので汗臭かったかもしれないが、全く自分ではそれが気にならなかった。

壺溪塾では地震や火事などの災害が起こった時のマニュアルを作っていたが、熊本地震を経て思うことは、マニュアルもさることながら、個人の力がどう発揮されるかで被害が拡大するのか、最小限に留めることができるのか分かれるという事実だ。災害の時にこそ個人の真心や塾生への一生懸命さが露になる。

紹介する本  「熊本地震」写真集
これは熊本日日新聞社から出版された写真集です。地震発生後2週間までの被災の様子をドキュメントです。前震。本震による被害の状況を中心に、全国からの支援や復旧、避難所の様子などのほか、2週間のドキュメントが綴られていて、後世に残す永久保存版となっています。