壺溪塾

わたしを語る

~熊本日日新聞読者のひろばに掲載~

第43回 ふーっと大きな息 父逝く

仲良しだった二人
甥の結婚式にて

父木庭令一は令和5年4月12日に、母澄子はその2か月後の6月18日に亡くなった。それぞれ97歳と92歳だった。母は90歳まで自宅の台所に立ち、父のために生き生きと料理を作っていた。父は母を「おかあちゃん」と呼んで依存していて、母がいないと一瞬も生きていられないようだったが、母が転んで一時歩けなくなったこともあり、父を令和4年に施設に預けた。

それからの父は1週間に1回、私たち姉妹が交代で甘い物を届けると「うわー、こんなうまか物は初めて食べた」と喜んでくれ、子孝行の父だった。風邪も引かず、痩せてはいたが食も細い方ではなく、何でもよく食べる。それが令和5年3月末に急に容態が悪くなり、国立病院に運び込まれたとの連絡を受けた。敗血症だった。主治医になった小野宏先生は、父の尊厳を重んじる丁寧なケアをしてくださった。小野先生は聖路加病院元院長の日野原重明先生の下で働いた経験を持ち、精神性を重んじた医療の実現に尽力して来られた方だった。熊本出身ではなく壺溪塾をご存じでなかった小野先生は、父のことを調べてくださり、看護師さんたちに「この方はすごい方なんだよ。精神教育を重んじる壺溪塾という予備校をずっと運営されて来たすごい教育者なんだよ」と話してくださった。1ヵ月の入院期間中に意識も段々薄れていく父を精一杯呼び戻そうとされ、真心の医療を施して下さった。一時期は持ち直したので転院できるか、という所まで来たが、その後容体が悪化し、入院から1か月後、父の呼吸が厳しくなってきたという連絡を受けた夕方、私たち3姉妹は病室に揃い、電話で東京に住む妹治子も私たちと「おとうさん」と呼び掛ける中、父の息をする間隔が間遠くなり、私達が声を掛けるとふーっと息をして画像の波形が波立つ。何度かそれを繰り返し、最後の大きなふーっのあと、ついに息が途絶えた。小野先生は私達だけにしてくださり、父と娘たちとの別れの時間を作ってくださった。父は最期のときに、父のしてきた精神教育に敬意を払ってくださった小野先生と出会えて幸せだったと思える。

晩年の木庭令一は家庭で母に甘える一人の夫、施設に入ってからは娘たちの持って来る甘いシュークリームを、相行を崩して喜ぶ一人の父だった。亡くなる数日前、二女の芳子が見舞いに行ったときにまだ話せた父が芳子に「心配せんでよかばい」と言ったそうだ。ものすごい社会人だった父だが、最後まで我儘でなく自分を律するところを持つ家族思いの父だったことを誇りに思っている。