晩年の母は、父と同じく文句ひとつ言わなかった。病床にあって立派に振舞えるというのは本当に誰にでもできることではないと思う。夫の母も肺腺癌で82歳の時に亡くなったが、夫の妹と弟夫婦が一緒に住んで看取ってくれた。夫の母と私の母は仲良しだったので、義母が亡くなる少し前に実家の母が脳出血で倒れたのを伝えた時、義母の興梠スマ子は、「はーっ」と驚き、病床で手を合わせて「どうか助かりますように」と祈ってくれた。もう起きるのもきついくらいの病状ではあったが、寝たまま手を合わせて祈るその姿は気高かった。父と母も最期の日々、決して理想的な環境にあった訳ではないが、私たちに苦痛や寂しさなど負の感情を訴えることは一切なかった。どう死ぬかはどう生きるかということだと言うが、私は最期の日々、父や母のように立派な生き方を貫くことができるのだろうか。自信はない。言えるのは生きていく中で「こうありたい」という努力を続けていれば、そして最後まで努力すればそうできるのかもしれないということだ。不思議なことが2回起こった。母は父が亡くなる三日前の朝、ベッドから落ちていたことがあった。落ちたのではなく降りたのだと言う。「おとうさんが、おかあちゃん、いつまで寝とるとか、はよ起きてご飯ば作ってくれ」と言うから降りたのだという。母は、亡くなる前の日の土曜日に苦しそうだったが、ゼリーや桃を口にし、私達3人の娘と少し話した。そして土曜日の深夜まで見回りのヘルパーさんの声掛けにも答えたが、翌日曜日の午前8時に来てくれたヘルパーさんの声掛けに応答がなく、私達3人が駆け付けた時にはまだ温かったが事切れていた。母は元気な頃から「人間は、ほんとうは一人、最期は一人」と言っていたが、その言葉通り日曜日の朝に一人ぼっちで死んでいった。その夕方、マンションの窓から裏のドアを開けたら、西の空を夕焼けが染めていた。その薄紅色に染まった空に一筋の光がすーっと立ち昇り、天に向かっていくように見えた。父の元に母の魂が昇っていくようだった。
父と母は仲良しだったのだろうか。若い頃は壺溪塾の仕事でちっとも家にいない父。いると癇癪を起し、お膳をひっくり返したりする父。縦のものを横にもせずお湯一つ沸かすこともしない父。どんなに父が我儘を言っても母は口ごたえをせず、ニコニコしていた。晩年は、家庭では父が母に依存しているように見えた。「おかあちゃん」と呼んで傍にいないと一時も過ごせないように見えた。父の片思いのようでもあった。しかし、父が「お母ちゃんは世界一素晴らしい女性」と誉めると母は「やめてください」と迷惑そうにしていたのだが、内心まんざらでもなかったのかもしれないと今は思う。父は純粋に心から誉めていて、生涯母だけを愛したのだと思う。90歳を過ぎても気持ちが若く可愛かった母。私たちの人気者だった母。亡くなって1年半過ぎた今、母にとても会いたい。
マンションから見えた薄明光線 母の魂が父の元へと昇っていくようだった