壺溪塾に入ったとき「単に合格するだけでなく、高い知性と美しい人間像の完成を目指す」という教育理念に触れた。壺溪塾生の目標は合格だけではないと説く。人間教育を真っ向から謳う予備校の理念は、塾生のときには少し照れ臭かったが、今はすごい目標だと感じる。これは壺溪塾生だけの目標ではなく、卒業してからの目標、職員の目標でもある。年を取り死ぬまで色あせない目標だ。
「美しい人間像の完成」は、祖父木庭徳治が壺溪塾を創立した1930(昭和5)年に定めたものだが、戦後にできた教育基本法の第1条(教育の目的)には、「教育は、人格の完成を目指し」とあり、祖父の先見性に驚いたことがある。
2006年の教育基本法改正の際の国会審議で、ある議員が「『人格の完成を目指し』というのは、完成というと決して到達できないということではないか、『人格の形成』『向上発展』の方が良いのではないか」と質問したのに対し、当時の小坂文部科学大臣は「『人格の完成』とは、各個人の備えるあらゆる能力を可能な限り、かつ調和的に発展させることを意味するものであり、人間が人生を貫く中で、常に学ぶ気持ちを持って、人格の完成を目指して努力すること。完成は神のような全知全能を備えたものを指し、それを目指すということ」と答弁している。
芥川が「エゴイズムのない愛はない」と言ったのは、どんなに無償の愛に見えても人間の実体はエゴにまみれている、愛と言ってもそれは神のアガペには到底及ばないもの、という鋭い指摘だったと理解できる。その意味で「目指す」というのは含蓄の深い言葉だ。目指せばよいというものではないが、心の裡に自らの理想を掲げ、死ぬまで努力していくことはできる。道半ばの私だが、美しい人間像の完成を目指して自らの選択した努力を続けていきたいと思っている。
最近、県外にある予備校さんが「見える学力だけでなく、見えない学力を伸ばす」という教育理念をお持ちだと知った。そういえば『星の王子様』にも「ほんとうに大切なものは目に見えないんだよ」という一節がある。
「見える学力」は点数で表される学力だが、「見えない学力」は「人間力」だという。壺溪塾が目指す「美しい人間像」も、目にえない価値、「ほんとうに大切なもの」に違いない。それを目指す主体となるのは、18歳前後の若者だけでなく、その教育に携わる私たちもである。